当時、健一は既に結婚していた。健一は今回の事例を、ただ単に作業日報の特記事項的な内容で終わらせてはもったいないと思った。今回の赤ん坊の早期死体発見という刑事事件解決の功労的行動が、藤倉産業の西方市への企業アピールになるのではないかと思ったからだ。

そこで会社から持ち帰った過去数年分の作業日報をめくって、通常では起きないだろうと思われる事例を拾い出した。そのなかには、とてもかわいがっているペットの猫が、トイレに落ちて這い上がれないで、便槽の淵にうずくまっているところを汲み取りに行って蓋を開けたことによって発見し、助けることができたというものがあった。

また、脳梗塞で家人がトイレで倒れているところを発見して、消防に連絡したので助かった事例や、一人暮らしの老人が、トイレのドアを開けられずにいたところに、たまたま行って気がついたので助けてあげられたことなどもあった。

大事にしていた亡くなった母親の写真が入った財布を、トイレに落としてしまい諦めていたが、汲み取りのとき見つかったので、きれいに洗浄殺菌して届けてあげたところ、本人がそれを写真館に持って行って復元複製してもらい、新しく額に入れて部屋に飾った人がいたこともあった。そのほかにも、トイレの床を支える根太(床の下に渡す横木)が腐って床が落ちそうになっているのを教えてあげて事なきを得たことなど、さまざまなことがあった。

特に多いのは作業開始の挨拶に声をかけても返事がないので、家の中をのぞき込んでみると、家人が倒れていたり寝込んで動けないでいたりするのを発見することだった。その件数は、十九件もあった。そのうち夏に熱中症で倒れていたのは十一件、冬にトイレで倒れていたのは六件、その他、木の枝の剪定や屋根の修理などをしていて梯子から落下していたのが二件だった。

昔の家では、トイレの床と同じ高さに小さな擦りガラスの窓があった。ではなぜ下の方にあったのか。それは、トイレは普通家の一番北側の暗くなる場所に作られるので、暗くなってしまうからだ。しかし防犯上あまり大きな窓を付けるわけにもいかない。そこで和式の便器に片足をドスン……などと落とさないために、なるべく足元だけにでも明かりを取り込みたいがために、床と同じ高さの小さな掃き出しのような窓を付けたのだ。

また排泄後の屎尿の臭いは、ほとんどがアンモニアやメタンガスの臭いだ。それらのガスは空気より比重が重いので部屋の下に溜まりやすい。昔は換気扇などないので、家中に悪臭が充満しないように、すみやかに排気するための機能も果たしていた。しかも、掃除をするときに埃をすぐに箒で掃き出せるし、雑巾がけをした後乾きが早いのも理由の一つだ。

その他に都会に多い切実な理由としては、家の敷地が狭いので、トイレの外にマンホールを設置する余裕がない場合などは、この小窓からバキュームカーのホースを入れて、便器から直接汲み取りをしていたことも挙げられる。もっと原始的なトイレで、甕かめを埋め込んだだけのものも、この方法で汲み取っていた。この小窓のおかげで健一は、擦りガラス越しに倒れている家人を発見したこともあった。何より良かったのは、健一が発見し消防に通報した人の死亡事案は一件もなかったことだった。