【前回の記事を読む】夫の急逝に動転し…飛行便振り替えのメール「届け!頼む!」
第一章 突然の別れ
日本へ
バゲージを引きずって歩いた。肩にかけた手荷物の中には博史愛用のカメラと私のPC。ハンドバッグにはタブレットと貴重品。
道は舗装されておらず、石畳である。しかも、古い。路面にはでこぼこがあり、ゆがんでいる。たびたび、バゲージの車輪が石畳の溝にはまってバランスを崩した。
この道は、イタリア語のレッスンのために通った道だった。レッスン後、いつもウィンドウショッピングや、ときには屋台で果物などを買ったりしながら歩いた大好きな道だ。
一時間ほどかかって、ローマ広場に着いた。空港行きのバスは、午前六時までない。タクシーに乗った。
午前五時。サン・マルコ空港到着。チェックインを済ませて、待合室に入った。
実は、この本を書くにあたって気づいたことがある。アパートで娘と話したことなどは、思い出すことができた。三年経っても、自分が発した言葉や娘の言葉と声など、お焦げのように心の底にこびりついていた。
しかし、アパートを出てから空港までの記憶が、歩いたこととタクシーに乗った事実のほか、ほとんど思い出せない。言葉にして話すことをしなかったからだろうか。何も考えず感じず、ひたすら歩いたのだろうか。それとも言葉にしなかったために記憶の仕組みから抜け落ちていったのだろうか。
町がしーんと静かで、うっすらと明るかった。その灯りのなかに、店のウィンドウが照らし出されていた。石畳の溝に何度もバゲージの車輪を取られた。だが、バゲージを引っ張り上げた折の重みとか痛みとかの感触が残っていない。一月末の早朝はものすごく寒かったはずなのに、肌の感覚もない。ゴミ収集の人や観光客らしい若者グループたちも「見た」のでも「見えた」のでもなく、ただ視界に入ってきただけ。
私の記憶が次につながるのは、サン・マルコ空港の待合室でスマホを開けたときである。スマホには、数人からのメールが届いていた。どれも「朝のニュースで知った」「恭子さんはどこにいるの? 大丈夫?」という内容だった。ネットニュースにも載っていたというので、検索した。
『早稲田大学教授、西原博史さんが……中央高速道路で事故を起こし、その後何らかの事情で道路に出たところを、トラックにはねられた』
初めて、概略を知った。取り返しのつかないことが起きたのだ、と明確に認識させられた。