雨の休日に高谷が夫婦で来た。そんな大事な用事はもう僕らにはないはずだ。
「こいつは君のことをてるてる坊主と言い出した。晴れの日は自転車で出かけてしまう」
「草太、一言ありがと言ってやって。この人、わたしより親身に心配したのよ。こんな早く帰ってこられて。白髪ね。他は、痩せて引き締まったじゃない」
「まだ礼を言ってなかった? ごめんよ。地に足がつかなくて」
「白髪、いい感じだ。禿るよりずっといい」
「あなたは禿てよかったわ。風采が上がった」
「お父さんも禿ずに白髪だから血筋でしょ」
「雨の中わざわざ来て禿の漫才やってくれてありがと」
「てるてる坊主羨ましいが、僕も定年が見え出した。考えなければならない。そのあとが長い。君も、定年後ゆっくりできるから、もう一度Yに戻れよ」
「娑婆気失くしたんだ……」
「それは個人の自由だ。仕事は娑婆との命綱だと思えよ」
もっともだ。それで死にかけた。それで特別な医療を受けることができた。いくつかの保険が下りた。娑婆を毎日眺めていても胸の空洞が塞がるわけじゃない。それは娑婆のせいじゃない。
MERSが発覚するまでにレポートは提出しておいた。Yとは貸し借りなしだ。老親を口実には、出来ないな。放ったらかしでてるてる坊主だ。
「頭の血流が悪くて……うんと言えない」
「三月が期限だ。君は惜しい人材であり続ける」
「ねえ、歳って取ってみないとわからないものなの。あなたからはもう何万回も親莫迦って聴かされてきたけれど、やっとわかった。だから、莫迦だから、草太にいやなことさせないでね」
「草太、わたし、あなたの嫌がること一度でもさせた?」
「誰も一度だって僕に嫌がることさせたことはない。今日はここまで」
父親はなんにも言わないで一同を眺めていた。去年の今頃だったんだ、室町淳と再会したのは。
片方の翅を捥がれた金色の蝶が群れて散るような落葉のあとに黒い樹幹が沿道に取り残されていった。個人の自由なんて、義兄さん、お天道さんも娑婆もキープアウトにゃしてくれないよ。
議論する気はない。強弁しない。義兄さんこそ僕の命綱かもしれない。感謝すべきだろう。
なんという一年だったことか。しかもなお、僕がずたずたにもならず娑婆にもどるなんて。貧血ながら。