母は京子から父の世話を言い出してくれることをひたすら待っていたのかもしれない。それに対して、京子は京子で自分から言い出せることではないと思っているうちに、時が過ぎてしまった。今振り返れば、それが遠い昔の真実のような気がした。

京子の悪口を両親から聞いたことはない。むしろ父は、品格のよさを褒めていたと、最近になって妹から聞いた。

父が九十六歳で亡くなったのを境に、母は四年ほど呆けた状態になってしまった。まるで部屋がごみ箱であるかのように、お菓子などの包み紙を、あたりかまわず投げ捨て始めた。掃除をする傍らから、ポイ、ポイと京子の目の前に投げた。京子は、今までの両親に対する自分の行動のしっぺ返しを受けているのではないかと、自分を責めるようになった。

夫婦にとって、母の異様な行動は初めての経験であり、認知症と正常の境が、全く分からない中での、大きな悩みごとになっていった。

痛風で病院に行くときも、タクシーの乗り降りには、京子が手を引いたが、運転手の視線に気付くと、突然その手を振り払い、「人が見てるじゃないか」と、母は不機嫌になって、よろよろと先に歩き始める。

衰えた厄介者扱いをされてたまるかという一心で、病院のなだらかなスロープを自動ドアに向かって歩いたかと思うと、ふと立ち止って叫んだ。

「もう、ちゃんと見ててよ。転ぶじゃないですか」

「お義母さんが自分で手を振り払って……」

「そんな嘘を平気で言うなんて、あなたはどうかしてる」

母は、身体が利かない現実が情けなくなり、新たな怒りに追い立てられるように、京子が差し出した手を再び振り払い歩き始める。暫くすると、完全にそのことを忘れ、愚鈍で気遣いが足りない嫁という記憶だけが、毎日、毎日、母の心の中で積み重なっていった。

今思えば、当時の母は、忘れていたことさえ思い出さないで、次から次への新しい思いに移っていったのだろう。その頃の私達には、考えつきもしないことだった。医師から、母の腕の痛風の原因は、ストレスからくるものだと言われた。

転んで足の骨でも折ったら何を言われるか分からないと、京子は私の兄、姉、妹の目を気にすることで、ますます義母から離れることができなくなった。母は母で精神の波が正常に戻ったとき、疎ましい嫁がすぐそばにいることが癪に障る。その結果、二人ともどこにもぶつけられない憤りで、へとへとになっていった。

ところが、母は私の兄が来ると、不思議なぐらいに、長時間、いや、その日一日、慎み深い精神を取り戻して、機嫌よくふるまった。「母さんは、ぼけてなんかないじゃないか。大袈裟だよ」と言う兄の言葉にも、京子は精神的に追い込まれていった。生真面目な京子は、義母に対して、まるで誇張したいじわるをしていたかのような責めを自分に感じた。

京子は私の家族間でのもめごとは、嫁ぎ先の恥との認識が強く、決して実家にも友人にも話すことはなかった。それが必要以上に京子だけのストレスとなって積み重なっていった。