ミプラコを退職して独立
せっかく、大志を抱いて日本からはるばるカナダに来て、六十五歳の定年までこのまま働き続け、移住した結末がこの会社で終わるのか。政裕が設計し製作と工事の監督までの責任を持ち、会社の利益に貢献してもそれは当然のことではあるが、同じく大志を抱いてやってきたドイツ人移住者からいくばくかの退職金をもらって平穏な余生を送るのは割が合わない気がした。
少なくとも会社の役員として持ち株を与えるのが通常であろう。社長は二度、慰労の意味で彼の母国であるドイツへの帰省旅行に政裕を同伴してくれたこともあったがそんなことは大したことではない。この会社には約七年間勤めた。仕事の内容は充実していたし十分利益を生み出して業界の世評にも貢献したはずだ。退職してもミプラコに借りはない。政裕のデザイン技法が引き継がれてこれからも利益を生み続けるだろう。
政裕は独立を決意し経営者になるための準備を始めていた。社長に退職の意思を伝えると彼は理由を糾そうと何が不満なのか、待遇に問題があれば教えてくれといった。まさか政裕が辞めるとは思わなかったのだろう。あえて真意を露呈しなかった。彼自身が判断できるはずだと思った。結局は受け入れてくれた。
そして、政裕は独立後の自分の製品開発の仕事の傍ら、コンサルタントとしてミプラコに週二回出社してデザインのサービスをすることになった。資金欠乏に悩む家計にこの収入は助けになった。ミッキーも政裕の仕事が必要であり、経済援助のためにも協力しあうことになったのだった。
この退職で政裕は独立を果たすことができたが具体的な目論見があったわけではなかった。あっても成功率は限られているだろう。リスクを承知で会社を辞めたのは無謀だったかもしれない。未経験の会社経営を始めてしまったが、長い苦難の道のりが待っていて、世の中は生易しいものではないことを思い知らされることになる。
自宅の近くにあった経理事務所を訪れ会社決算に必要な公認会計士を依頼し、弁理士に株式会社の申請手続きを依頼した。一九八三年五月のことだった。