『八汐の海』
俺は辛くなって、どうしていいかわからない。淳さんの家では、外をほっつき歩くのも差し障りがあるだろうし、一個のアイスクリームを代わる代わる舐めながら歩くのも憚はばかられるだろう。淳さんは賢いから、俺の屈託を解ほぐそうとして、どうでもいいことだから、結婚してもしなくても。しちゃいましょうか?
「それには一つだけ、お願い。わたしもあなたの肖像を持っていたい。わたしが描けるように教えてくれる?それともあなたが自画像描いてくれる?」
藪蛇だ。あの、その……あんなことして女性も……するんだろうか。淳さんが……止めろよ。
「指導力ない。僕は自分が嫌いだから。好きな物しか描けない」
そうか。人嫌いじゃなくて自分が嫌いなのか。
「わたしが好きな物をあなたも好きになって欲しい」
酒や煙草なら。俺は左利きだが、鏡見て自画像描くと、右利きになる。そこにも俺は閊っかえる。ぶきっちょなんだ、とにかく。
そうこうして、事態は一向に進展しない。シェルターの隅にはついに古タイヤ製のサンドバッグが登場した。増田が眼を丸くして、鷹原、職替えするのかよ?季節が移る。衣替えにアパートに行かなきゃならない。気が重い。
「いっしょに行く?」
「うん……いや……」
「何か、どうかした?」
「……八年住んだな、って……」
「……あなたのアルトハイデルベルクだった?」
「あなたの連想はいつも……」
「……いつも、何?」
「いつも……現実を掠めて逸それる」
「絵を……描きたいか描きたくないかということ?わたしがいるのに一人で放っつき歩いているみたいになるときの八汐くんは危ない」
しおらしく淳に付き添われて電車とてくで向かう。
「あなたが、置いてくれるなら……アパート引き払っても……とか……」
「それは名案!」
「それには僕の物の場所がいるし……」
「なんとか収まるでしょう? 居間、だだっ広いし……ああ、アトリエが要る? 北向きがいいのだった?」
「いや、そんな贅沢は……絵を描くか描かないか、先に決めなきゃ……荷物を減らせるから」
「大事と小事がいっしょくた」
部屋が散らかっているのは割と平気だが、理屈の整頓をしたがる。
「わたしたち、死ぬまでいっしょにいたい。退路を断つ。ね? 荷物はそっくり引っ越す。使わない物はサンルームをコンテナにして。名案でしょ?」
「……ありがとう……僕はあなたの……母性に甘えているだけの燕?」
「そう? 太洋くんは完全に母恋症候。痛々しい。八汐くんも……燕か……逃がさないように籠に入れるかな」
男は皆マザコンだが。
「真面目に。けじめ付けなきゃならないでしょ」
「ご挨拶だけでもいい」
「届、出した方が、あなたが護られるんじゃないか……」
「あとで検討しましょ」
「いや、僕が将来、責任果たすように」
二人の思い合う気持ちだけで繋がっている。夫婦、親子、兄弟、友だち、でもその二人は特別で、他とは違う繋がり方。躰が裸で触れるように、心も裸で触れることができるのだろうか。