来栖にとって百合のことで忘れられないほどの印象を持ったことがあるとするなら、それこそまさに「末期の眼」とも言うべきものを彼女が見せたことがあったということに他ならない。

「末期の眼」というと、自己の肉体や精神に必ずや終わりがあること、その自覚をもって自己を眺め、さらにそのように世界と自然を眺めるということに尽きるようだが、彼はそのように大層な悟りの境地というようなものが付随している意味でこの言葉をとらえてはいなかった。

悟りを覚えれば確かに自然の森羅万象は全て美しく儚いものと受けとめることができるだろう。百合に見てとった「末期の眼」とはその持ち主が何か果てしなく遠いところにいて、実際にこの世で占めている肉体からも、周りの状況からも遊離してしまっている雰囲気を出していると感じ取ったから、彼はそのように名づけただけである。このような眺めようを持つ人間の目が「末期の眼」ではないだろうか。

人間がそのような眼を備える不可欠の前提としては、悟りのようなものではなくて、何か人生を諦めたというような境地に入り、さらに自覚するしないにかかわらず、身近に死が近づいてきているような気がするという、予感めいたものがあるのではないだろうか。

百合の場合は実際に若くして亡くなってしまったので、彼が漠然と彼流の理解で「末期の眼」を生前の百合に感じ取ったのはできすぎた話である。ひょっとするとこれは唐突に百合の死を知ってしまった結果、恣意的に帳尻合わせをしたにすぎないことかもしれない。

このような辻褄合わせは遅ればせの心の働きにすぎないとも言える。そうでなければ、自分はある意味、百合の死を予知してしまっていたということになるではないか。彼の思いは余計な思念と連想をしょい込んで自己を責める気持ちと、罪の意識から逃れたい気持ちの間で堂々巡りするばかりだった。