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目の前で人が死ぬということ

人が死亡したら、病院や自宅で最後を看取る以外は現場保持が原則で、そのまま保存しておかないといけないのである。そのことを知らず掟を破った僕に警察官は容赦しない。いまから写真を撮ると言い、鑑識官のような人が来て、Oさんの自室のベッドの上を僕が指差して写真を撮られる。サロンで最後寝ていた場所、嘔吐した敷物、それらも指差しして写真を撮られた。

さらに、逮捕こそされないものの、園長室で自分の直属の上司とY支援部長と僕と警察官二人によるちょっとした事情聴取が行われ、「署に同行してほしい」と言われる。僕は上司の車に乗り、その前後をパトカーが挟んで走った。

警察署に着くと、寒いなか署内のロビーに放って置かれる。3時間くらい待っただろうか、警察官に事務室に呼ばれ話が始まる。

簡易解剖の結果、Oさんの死亡原因は肺水腫であった。片方の肺が水でいっぱいだったそうだ。身体に二つ三つある痣が気になるという病院からの連絡を受けたのでこのような形になったと説明を受けた。僕は気が抜け、また泣いた。

園に戻り、酷く落ち込んでいるとY支援部長が隣に座り声を掛けてくれた。僕は「何でこんなことになってしまったんだ」とか、「Oさんはもう少し早く医療的ケアをしていれば助かったのでは?」などと部長に訴えた。部長は頷きながら僕の話を聞いてくれ、」一言だけ言葉を掛けてくれた。

「君はOさんだけの支援員ではない。20人の利用者さんを見守る一人の支援員だ」

僕は静かに、

「はい」

と返事をした。

このときの悲しみを少し引きずってしまったけれど、Oさんの葬儀も終わった頃、ご遺族の方からいままでの感謝の気持ちの言葉を頂いた。僕はなんとも言えず、家族が胸に抱くOさんの遺影の写真に向かい静かに「さようなら」と言った。

Oさんのことがきっかけで、A障害者施設の医療体制が変わった。旧体制の、障害者施設診療所は、地域の方も利用できる診療所として存在し、施設にいるけれども利用者さんはあくまで“診療所に通う患者さん”というシステムだった。そのために、Oさんが急変しても医療的対応ができなかったのだ。

これを、新体制ではA障害者施設看護課として設立した。看護課長を置き、早番、日勤、遅番の看護師が常駐するようになった。急変時には施設最寄りの看護師にONコール(緊急時呼び出し)が可能となり、現場支援員の心理的負担はかなり軽減されたのである。