二〇世紀から二一世紀にかけての転換期にあっては、保守、革新を問わず政党が中心になって労働組合や財界、さらには金満の篤志家個人が支援する形で、政治家養成のための一種のアウトソーシングが徐々にではあるが多角化してきた時代といえる。

来栖が所属する政経塾に関しては、元来「政治を実際に動かしてみたい者よ、来たれ!」、というアピールが塾生を募る場合に強調されていた。

入塾した当初は来栖も講義や講演を熱心に聞き、政治の実務を学ぼうとする模範的な塾生だった。

特定の政治的テーマを扱い、演説や講演の形でまとめ、どのように説得力のあるものに仕上げるかという、政治家養成のための実践的な活動に熱中できた。

ところが入塾して翌年に入る頃だったろうか、それまで熱心に聴講していた講義にもどういうわけか身が入らなくなり、ワークショップに参加し、他の塾生と討議しながらの共同作業をしていても政治の実践面で活用できるような応用力も、立論化の力も自分には備わっていないのではないかと疑心暗鬼になり、倦怠感のみ残るという状態に陥ってしまった。

この塾には規約上、最長三年間は在籍できることになっていたのだが、ちょうどその頃に彼は塾での後期コースへ進むために出された課題をこなして、前期を成功裡に修了しなければならない時期を迎えていた。

具体的に言えば、その課題とは、衆議院の国会議員選への立候補という企画で、政見放送用の演説をテキストにまとめ発表するというものだった。

実際に審査会の前で実践的に「演説する」という形を通じて、政策内容だけでなく有権者への説得力も審査されるという内容だ。