Ⅱ
百合の『遺書』を見せられてからかなり動揺した時期もあったが、その後三カ月ほど経った頃だった。
明確な目的意識とまではいかないが将来やりたいことを見つけ出せるのではなかろうかと、やっと将来就きたい仕事に関して具体的なイメージが湧いてきて、一息つけることができるようになった。
もちろんそこに至るまでには紆余曲折があった。所属していた政経塾は塾生の修業を二分化しており、『履修規定』上の区分で塾生をそれぞれの得意分野で成長させることができると考えていた。
実際に政治家を目指す特別コースと、もう一つは政界や経済界の分野で何らかの職種を得るための一般コースとに分かれていた。
前者のグループからは、これまでの経緯ではおよそ二割程度の塾生が中央官庁で行政に関われる官僚になれることを目標とし、残りの大半は一足飛びに政治家になることをめざしていた。
もともとは特定の政党と政治・経済団体からの寄付金、及び賛助金で設立された塾であるから、当然政治家を養成する塾だったのだが、設立から一〇年ぐらいを経ると塾生の中には政治家を目指す本来の目標から逸脱する者のほうが多くなっていったようである。
塾の設立から初期段階にかけては来栖が在籍していなかった時代であり、これらのことはもちろん聞いた話にすぎない。
初志貫徹をめざす塾生にとって現実は厳しく、塾生として長年在籍し続け、修業に励んだにもかかわらず、自らが政務につける身分にまでこぎつけた塾生は皆無だった。せいぜいのところ現役の国会議員や地方自治体の首長の秘書についた者が出世頭といえるのが現状だった。
したがって、塾では前者のグループと後者のグループが現実には次第に似通ったものになっていくところもあった。
この塾で研鑚を積むうちに、実務としての行政職に就くという目標が失われ、政治の実務よりもむしろ政策を策定する為に法整備の理論を構築したり、さらにはメディアの世界で政治評論や社会批判を展開したりするほうが数段面白いと考えるようになる塾生が出てきても不思議ではない。
この点では来栖も塾を見限って辞めてしまうところにまではいかず、塾での教育内容に今なお価値を見出しているところもあった。