(1)マニラ人間模様
正嗣がマニラに来て一週間目の金曜日の夜、GHフィリピン社の日本人スタッフ一○人での夕食会が会社近くの海鮮料理レストランで行われた。正嗣の歓迎会と、六〇歳の定年を迎え退職する八若小佐衛門の送別会を兼ねたものだった。
八若の実年齢は六二歳だが、GH入社時に二歳サバを読んだそうだ。後で発覚したそうだが、黙認され社内での記録は修正されなかった。この辺は実にいい加減でフィリピンらしい。
八若は元日本兵だそうで、陰では〈戦争の生き残り〉と呼ばれている。太平洋戦争中フィリピンに出征し、バターン半島の米比軍との籠城戦に駆り出された。
食料不足の状態で戦いも長引いたため、多くの戦友をデング熱やアメーバ赤痢で亡くした。やがて、戦いには勝利したものの、アメリカ兵一万人、フィリピン兵七万人という大量の兵士が捕虜として投降してきた。
この時バターン半島の戦線にいた日本軍兵士は二万五千人あまりで、この大量の捕虜を収容所のあるサンフェルナンドまで移送しなければならなくなった。
これが悪名高い〈バターン死の行進〉だ。
トラックなどの輸送手段はなく、サンフェルナンドまでの約八〇キロの距離をただ歩かせるしかなかった。米比軍投降の原因は食料や薬の補給路が断たれたためで、捕虜たちは飢えや病気ですでに疲弊しきっていた。
そのため移動中にバタバタと捕虜たちは死んでいったのだ。小佐衛門も重い背嚢を背負い銃を担ぎ捕虜たちと一緒に歩きその様子を見ていた。
普段は物静かなおじいちゃんだが、戦争の話題となると口を閉ざし一言も発しなくなるという。あの恐ろしいバターンの籠城戦と死の行進の光景がフラッシュバックするからだ。
死の行進については戦後の極東軍事裁判で「捕虜虐待であった」とか「途中で虐殺があった」とか言われているが、その場に居合わせた八若は何を見たのであろうか。
バターン死の行進は第二次大戦中の一つの事件なのだろうが、今でも八若を苦しめていることだけは確かなのだ。
八若は二四歳で終戦を迎え、その後の一時期をモンテンルパ収容所で過ごすことになる。八若の父の弟にあたる叔父の寿太郎は、戦前ミンダナオ島に移民し麻の栽培で財を成していた。
甥の消息を知るや、裏で色々と手を回し小佐衛門を収容所から救出したそうだ。この時寿太郎は収容所スタッフの上から下まで、かなりのお金をばら撒いた。
その効あって、収容所スタッフは所内で八若が死んだこととし、秘密裏に八若を釈放してくれた。
斯くして、収容所を出た八若は叔父の農場で働くこととなり、三二歳の時フィリピン人女性と結婚し二児を儲けた。