第一章
「心臓が跳ねる」とは、こういうことか。一瞬だけのんきな考えがよぎる。
五月のよく晴れた日。一限の授業中の半端な時間。私も一人だったけれど、柴田くんも珍しく一人で歩いて来る。このままだとさすがに無視できない距離になる。どうしよう。挨拶するべきだろうか。私は彼を知っているけれど、彼の方では私を認識していないかもしれない。週に数単位、必修の英語やいくつかの選択授業が同じになる程度で、一対一で会うのは初めてだ。「おはよう」と言った返しが「誰だ? おまえ」という目線だとしたら、いたたまれない。
だからといって無視したら――。もし彼が私を同じクラスの女子と認識していたら、失礼な奴だと思われるかもしれない。怖い。どうしよう。どっちが正解だろう。
よほど見つめていたのだろう。私の存在に気づいた柴田くんが、すっと右手を上げてジェスチャーだけで挨拶を投げてくれた。再び心臓が跳ね上がる。
「おはよう」
不自然に甲高い声が出た。「怖い」は「好き」と同義だと誰かが言っていた。「もし、この男に惚れたら私はどうにかなってしまう」という予感が、恐怖として認識されるのだそうだ。私が柴田くんに惚れたら? 視線が交差した瞬間がスローモーションで脳裏に再現される。恋に落ちた瞬間――。まさか、そんなものを自覚する日がくるなんて。このときはまだ自分でも分かっていなかったのだけれど。