だが、智子の友だちの伊藤千絵なら、井上の存在を知っている。井上、というよりもむしろ、松越百貨店金沢店店長という存在をだ。千絵なら、井上と智子を結びつけるだろうが、それを新聞かテレビのニュースで知って、わざわざ警察に出頭して、教えたりするだろうか。
ましてや、智子は既に死んでいる。死者が生前不倫をしていたと告げて、智子の名誉を傷付けたりするだろうか……この場合、千絵が警察に言わなければ、井上と俺とを結びつけることはできない。
しかし、千絵の動向は、要注意だ。千絵が警察にたれ込まないようにするにはどうしたら良いのか……そうだ、俺が、智子が松越百貨店金沢店店長との間を感づいていない振りをすれば良いのだ。
これなら、大阪に帰ってから、いや、東京に行って、智子の浮気などこれっぽっちも疑っていないように、千絵に対してひと芝居うてば済む。
いずれにしても、誰も井上と俺を結びつけることはできない。ああ、それにしても、死んでしまうとは思わなかった。ただ、殴っただけなのに、からだが小さくて華奢だったので、勢いよくすっ飛んでしまった。殺そうと思っていたわけではないのだ。
だが、井上は殺されても仕方がない。他人の女房を寝取ったのだから。
そうさ、天罰さ、天罰が当たったのさ。あれは、勝手にあいつが階段を踏み外したのさ。俺が悪いんじゃない。元はと言えば、井上と智子が悪いのだ。
俺はこれっぽっちも悪くない。亭主を裏切っていた女房が交通事故に遭い、その相手が階段から足を踏み外して、転落死。二人とも自業自得ではないか。
俺は、将来のある身だ。会社ではエリートコースを歩いている。こどもの時から、いつも成績、スポーツともに一番で、学校も一流校を卒業し、有名企業にも就職した。
人生のこんな所で、つまずいてはならない。井上のような、もう人生の後半のそのまた後半を折り返したような男に、これからの将来がある俺の人生が目茶苦茶にされてはたまらない。
もしかしたら、俺はわが社の社長にさえ、なるかもしれないのだ。今の課長にぴったりと付いていけば、万更ありえないことともいえない。
一流メーカーの社長になるかもしれない男が、百貨店の地方店の店長ごときのつまらない男の犠牲になるわけにはいかない。
達郎は、井上を殴りつけた時にできた右手の擦り傷をさすりながら、絶対に逃げ切ってやろうと決意した。