新婚生活

漁火を改修し、一人でスナックの経営に乗り出してからさらに十年ほどが経った。

その年も志摩の観光地を彩る桜のライトアップの時期が終わり、海を渡って来る潮風も幾分冷たさが緩む季節を迎えた。

その日、美紀は朝食を済ませて喫茶店を開ける準備に掛かった。

カウンターに置かれた卓上カレンダーには今日の日に丸印がつけられている。準備をしながら美紀はチラリと目でチェックを入れた。

毎年、美紀は年の暮にカレンダーを手に入れると真っ先に四月のある日に丸印をつけてから漁火の壁に掛けた。

客がその印を目敏く見つけ、去年もついていたこの印は何だと煩く訊くようになった。

印は母智子の命日のリマインダーとしてつけたものだったが、酒の席で辛気臭い命日の話も憚られると思い適当な説明で誤魔化した。その翌年からはカウンターに置いた卓上のカレンダーに印をつけるようにしたのだった。

その日は夕方近くに珍しく喫茶店の客が立て込み片づけに手間取った。急いた美紀は片づけも半ばにして店の灯りを落し、車で英虞湾の岬の高台に夕日を眺めに行った。

美紀は、道路脇に車を停めると岬の高台へと続く緩やかな坂道を駆け上がった。暮れ掛けた四月の西空は既に茜色に輝いていた。

高台は横山展望台や登茂山園地のように公園整備がされてはおらず観光客に知られた場所ではないが、少し小高くなった平地で眺望の良い岬にあり地元の者たちだけが知る密かに夕陽を楽しむ場所だった。

間もなく沈む夕陽が、海に浮かぶ島々をシルエットに変え、凪いだ水面に煌めく鱗状の細波を黄金色に染め上げている。

それはまるで名残を惜しむ落陽が今日生きた痕跡を海面に刻みこもうとする虚しい努力のように見えた。

美紀はこの岬から眺める英虞湾の夕景が好きだった。

寂しさを覚えるとよくこの高台に一人でやって来ては沈み掛けた夕陽をぼんやりと眺めた。そうしていると赤く染まった夕陽が寂しさや悲しみ涙さえも遠い所に持ち去ってくれそうな気がしたからだ。

陽が沈むまでの僅かな間、美紀は目を瞑り両手を合わせて祈りを捧げた。

今日は十年前に亡くなった母智子の命日だった。

母が亡くなり、花屋で揃えた供花と線香を携えて墓に詣でた命日は最初の三年だけだった。

悲しみが癒え、寂しさにも慣れてくると命日への義務感も薄れ、何も墓までわざわざ行く必要は無い、その日どこかで手を合わせればよいと思うようになり、数年ほど前から晴れれば墓へ詣でるよりこの岬に夕陽を眺めに来るようになった。

なぜだかその方が供養にもなり母との思い出に浸れる気がしたからだった。

「ママ、どこへ行ってたの? 遅かったじゃないの」

美紀が岬の高台から店に戻ると康代が少し不満そうな顔をしてそう訊いた。