Ⅰ
来栖がサロンに出入りするようになって四年ほど経った頃だったか、その間早めに帰ってしまうことが多かった二宮守がコンサートが終わったあともそのまま居続けた。
終会後の出席者にいろんな音楽イヴェント情報を配りはじめたが、その日は珍しく男性の出席者をターゲットに、音楽とは全く関係のない政治講演会や経済セミナーの案内までも提供していった。
来栖のほうはさまざまな職種を転々とし、仕事にも日常生活にもマンネリ化の気味を覚え、何か新しい生きがいが見いだせないものかと模索している時期だった。日常を少し変えてみたいとのニーズに守の薦める政経塾が合っていそうだと判断したのか、来栖は三カ月後にはもう守の紹介になる政経塾に入っていた。
彼にはそれ以前の二〇代の半ば頃だが、広告代理店で定職に就きながら、短期間だが民間の経済セミナーに参加していた時期があった。その当時は会社勤めでの仕事が忙しくなっていき、三カ月の短期でやめてしまったが、政治や経済の分野での時事問題にはその後も関心だけは持ち続けていた。そのような経緯があり、今回の入塾は全く新しい分野の活動に挑戦するというほどのものではなかった。
ともあれ、このときから二宮と来栖は同じ政経塾の先輩後輩として親しくなっていく可能性は充分にあったのだが、一番肝心な「政治的見解」というものが根本的に違っていることが比較的早い時期に二人にはわかってしまった。論争相手としての関係は続くことになるのだが、親しい友好関係で結ばれるつながりは全く生まれないままだった。
百合のほうだが、音楽サロンを実質上懇切丁寧にといっても大げさではないほどに出席者の世話を焼き、会の進行を裏方に徹して取り仕切っていた。時たま出席してサロンのPRを引き受ける格好の兄と違って、主催者の叔父からは信頼を勝ち得ていた。
来栖も百合の人間性には信頼を寄せ、彼女には音楽への情熱も人一倍あるのだろうと想像していた。彼女は定例会ではめったに発言しないのだが、稀に語るコンサート評には、来栖自身共感できるところがあった。