「気をつけてください。転覆寸前でしたよ」

「そんなこと、どうだっていい」

わたしは母に逢いたい一心だ。

「なあ、庄兵衛。岸辺まで連れて行け。あれはわたしの母さんだ。ほら、まえに話しただろう。頼む、頼むよ」

わたしは庄兵衛に(すが)りついたが、彼は静かに首を振った。

「できません」

「なぜ。なぜなんだよ」

「この世界で岸に上がることは禁忌(きんき)とされています。それを破れば、あなたは地獄逝きが確定します」

「それでもいい。地獄がなんだ」

外套を死んでも離さない覚悟で握りしめるわたしに向かって、庄兵衛は鋭く問いかけてきた。

「地獄逝きでも構わない、と」

「ああ、頼む。このとおりだ」

神と対面しているよりも敬虔(けいけん)な気持ちで、覆いで隠された横顔を見つめる。母との再開がひとめ叶うなら、わたしは地獄に落ちても悔いはない。

「正気ですか」

勿論(もちろん)だとも。分かるだろう、おまえも人の子なら。もし反対するなら、飛び降りてでも逢いに行く」

「そう、ですか。そこまでの覚悟であれば、仕方がありませんね」

庄兵衛は天を仰ぎ、そして呟く。

「それでは、ごめん」

庄兵衛は櫂を握っていた側の先端で、わたしのみぞおちを唐突に強打した。強烈な衝撃で倒れ込むなり、舟上をのたうちまわるほかなかった。息をするのもやっとで、両眼の奥から奥から涙が込みあげてくる。庄兵衛は四苦八苦するわたしを横目に南無(なむ)(さん)と櫂を漕ぎ急ぐ。

「恨まないでください。私はあくまでも船頭者です。諌さんを無事に門まで送り届け、審判を見届けるのが役目です」

「かあ、さん」

わたしは遠ざかる母に向けて手を伸ばした。だが絶望的な距離が、ふたたびわたしたちを引き裂いていく。そしてわたしの眼は、光に隠れていたものの正体を捉える。

それは母がわたしに宛てた、最後の手紙だった。