蝶と草花
私の少年時代は戦後の混乱期の中にあったので物資は乏しかったが、遊びに関しては時間も場所も仲間にも事欠かなかった。
テレビは無く、塾も無く(小学生の時、そろばん塾に少し通ったことはある)、辺りにはまだ原っぱがいっぱいあって、宿題もそこそこに皆で遊び回っていた。
ベーゴマ、メンコ、ビーダマ、ケンダマ、コママワシ、チャンバラ等々。そんな遊びをある周期で繰り返し遊んでいた訳だが、ある遊びが我々の仲間で流行っている時に離れた所へ行って見ると、同じ遊びがそこでも流行っているので不思議だった。
近所に駄菓子屋があって貰ったお小遣いで色々買うのだが、ベーゴマ、メンコ、ケンダマ、コマなどは買った後にそれを自分で使いやすいように作り直すのが腕の見せ所だった。
メンコは表面に薄く蝋を塗り角を折ると強くなったが、これは暫くするとズルということで禁じ手となった。
ベーゴマなどは竹の先を割ってタコ糸でくくりつけて、それを舗装道路に押し付けて走って研磨して、角度や面を作り変えたりするのだが、これはなかなかの重労働だった。
運が良いと知り合いのオジサンに頼み込んで、グラインダーなどで磨耗して背を低くしてもらうこともあったが、背を低くすると飛ばす威力は増すけれどベーゴマを勢いよく長い時間回すのが難しくなるのだった。
回す腕が無いとだめなのだ。ケンダマの穴は小刀やガラスの破片で好みの大きさに削るのだが、これも入りやすさと抜けにくさのバランスがなかなか難しかった。
ケン先に入りやすいようにエンピツのサックを被せたり、自分の好みの長さに糸を調整したりした。空き地には毎日紙芝居がやって来て、皆水飴を舐めながら楽しみに見ていた。
水飴を買わない子供は差別されて後ろの方で見るのだった。黄金バットが我々のヒーローだった。空き地には時々バクダン屋もやって来た。
大砲のような釜にとうもろこしやお米を入れてアラレを作るのだが、熱した釜をドッカーンという大きな音で爆発させてアラレを金網の筒に吹き飛ばして皆を驚かせた。
それから野球もやったが道具はもっぱらゴムボールと木の棒で、空き地もそれ程広くなかったからセカンド無しの三角ベースだった。
切手やおまけのブロマイドを集めるのも流行った。そうそう紅梅キャラメルのおまけで野球選手のブロマイドを集めて、巨人軍の選手を一式集めるのが流行ったことがある。
水原監督のが希少価値でなかなか全部を集めるのは難しかった。監督が入った箱の見分け方の秘密情報が皆の間を飛び回った。小学生も高学年になると遊びもちょっと知的になってきて、昆虫採集やラジオ製作などに夢中になった。
大体そこでラジオ派か虫派に別れた。ラジオ派は秋葉原に出かけて真空管などの部品を買って来て家でラジオを組み立てた。虫派は蝶やトンボを捕って標本を作ったり、幼虫を育てたりした。
私は虫派で一時は蝶キチになって蝶を追い駆け回した。虫派の仲間に同じクラスのショーチャンがいた。ショーチャンは私より身体も大きくて、力も強く、クラスのガキ大将だった。