まだ幼い蓮にとって、それが離婚だったのか、人間と人間が一時的に少し距離を置こうとする、自然的な行為だったのかは、分かる筈もなかった。
義務教育の期間を母子家庭で育ち、父親という存在を知らぬまま大人になった蓮は、いつしかその存在を自分のものにしたいという欲求に駆られた。それは幼少期の頃に、蓮が永吉と二人でキャッチボールをした記憶が、脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。
夜、寝床に入ると必ず、幼い頃永吉と一緒にキャッチボールをした記憶が蘇ってくる。眠れない夜を過ごした事もあった。
親父は今、どこで何をしているのだろうか。
蓮は、永吉が生きているのかさえ知る事のできないもどかしさに、やり場のない憤りを感じていた。
親父と会いたい。会いに行かなければ。
勿論、有花には内緒だった。自分が永吉に会いに行く事をおふくろが知ったら、親子の関係は崩壊するかもしれないとさえ、思えた。
左手に付けた腕時計を除き見ると、針は一時半を指している。
その時計は、高校を卒業して社会人になった蓮に、有花がお祝いにプレゼントしてくれたものだ。外出する時はいつも、その時計を付けている。
「よし」
蓮は、何かに取り憑かれたようにして、アクセルを踏み込んだ。
蓮が運転する車は、ようやく最後の角を曲がり終える所だった。もう少しで、永吉と会えるのだ。
永吉と別れてから、十年の月日が流れた。親父は今年で何歳になるのだろうか。新しい家族と一緒に暮らしているのだろうか。
腕時計を確認すると、家を出て既に三十分が経過している。視線を前に戻すと、蓮の視界は、十数年前に家族みんなと暮らした、その家を捉えた。
やけに広い庭に入り込むと、沢山の花が咲き乱れているのが、車の助手席の窓から覗いて見えた。手入れもよく行き届いている。まだ人は住んでいそうだ。
家を見ると、その大きさに驚いた。周辺の家もそうだったが、その家は特に大きい。確か6LDKの間取に、居間だけでも二十五畳はある広さだったと、蓮の脳には記憶されていた。
庭を進むと、車が二台置ける車庫がある。その車庫には、車は一台も止まっていなかった。
遠くから、水のせせらぎが小さく耳に届いてくる。
永吉は、ここに住んでいるのだろうか。
十年分の想いが詰まった永吉との再会の日が、遂に今日なのだと、意を決してようやく辿り着いたのだったが、そう簡単に事は上手く運ばないようだ。
でも、あれだけ庭が手入れされているなら、誰かが住んでいるかもしれない。きっと祖母だろう。何か、永吉の事を知っているかもしれない。
蓮は、その小屋に車を停めて、庭に出た。車庫から家の玄関までは、二十メートルほど離れている。その間には綺麗に砂利が整えられ、人が歩くための道が造られていた。蓮はその上をゆっくりと歩いた。
歩きながら周りを見渡すと、昔飼っていたレオの犬小屋が、そのまま放置されている。もうレオは死んでしまったようだ。犬小屋を片付ける人は、いなかったのだろうか。
蓮は、視線を遠くに逸らした。庭から眺める山の景色は心地よかった。それは子供の頃、永吉と遊んだ記憶と重なった。
山の方から、川の流れる音が聞こえてくる。さっき聞こえたせせらぎはこれだったのだなと、察しがついた。
幼い頃、その川で溺れかけた事を思い出した。その時も、永吉が助けてくれたのだ。
過去の思い出を振り返りながら、蓮の心臓は張り裂けそうに高鳴っていた。
蓮は玄関の前に立った。
ばあちゃんは俺の事を覚えてくれているだろうか。祖母が昔、蓮とかくれんぼをして遊んでくれた記憶が浮かんでくる。きっと、覚えてくれている。
蓮は、自分の背中を押すようにして、一度深呼吸をしてから、チャイムを鳴らした。