皇居東御苑の本丸跡に残る空白の美意識

江戸城の本丸跡は皇居東御苑の一部として一般に公開されています。天守台の石塁は東御苑の目玉になる遺構です。一時、江戸城には天守台の石塁があるのだから、大坂城や名古屋城の天守閣が戦後復元したように、江戸城の天守閣も復元しようとの話が出たことがありました。

しかし、江戸城は日本最大の規模を誇る城でしたから、天守閣以外にも多くの遺構を残しています。

本丸の東南端には天守閣焼失後に代わりを務めた富士見櫓があり、西の丸の西南隅には京都から移築した伏見櫓があり、大手門の近くには櫻田二重櫓があります。しかも外濠や内濠の石造りの遺構は保存状態も良いので、天守閣を再現しなくても現状のままで江戸城の遺跡は立派に存在していると言うので取りやめになったと聞きます。

明暦の大火で焼失した天守閣を再建しなかったのは、町の復興を優先し、天守閣の再建を断念した大老保科正之(第三代将軍徳川家光の実弟)の英断によると言われていますから、その歴史的事実を尊重して、本物の石塁遺跡の上に模造品の天守閣を建てる愚を避けたのは賢明でした。

それだけではありません。もし模造品の天守閣を建てれば、本丸跡に現存する空白の美を壊すことになります。嘗て本丸の御殿屋敷が多く密集していた本丸跡地の中央部は、今は広い芝生ですが、その周辺部には目立たない形で庭園アートが展開しています。これらは現代風の造形であり、江戸時代の美を直接引き継いだものではありませんが、不思議と古い江戸城の美意識に通じています。

本丸跡の入り口に欅(けやき)の高木がありますが、その足下に刈り込まれた皐(さつき)が這っています。その柔らかな曲線は、打ち寄せる波頭のようであり、江戸湾の浜辺に見立てることができます。更にその波頭は、四季により花が色を変えるので見飽きることはありません。

本丸跡の芝生の最奥部付近には背の高いプラタナスの並木がありますが、その裾を隠すように柘植(つげ)が密生していて、その柘植は幾何学的に刈り込まれています。その角張った柘植の植栽は、嘗てこの地に立ち並んでいた数多の御殿の屋根に見立てる事が出来ます。更に、それらの柘植の植栽は広い芝生園の縁を囲うように曲線で伸びていて、城壁のようにも見えます。

江戸城の濠の石垣と城門の構えが美しく見えるのは、石垣の面が曲線を描いていたり、石組みの石で模様を刻んでいるからです。築城の主も施工者も、それを見る武士たちも美の感覚を心得ていたのです。

明治の近代化と共に江戸時代の物質的記憶を示すものは東京の街中から殆ど消え失せてしまいました。現代の東京には、江戸時代の面影を伝えるものは、江戸城の遺構しか残っていません。しかも江戸城本丸跡には、日本独特の空白の美が江戸文化の美意識として残されていると言ってよいでしょう。