アデリーナ・パッティ
パッティは一九〇六年十二月一日、アルバート・ホールでの告別演奏会を最後に、演奏界から隠退していた。年齢も七十二歳の高齢であった。
彼女が「歌の女王」としてイギリス人の崇敬を一身に集めてきた国民感情と、環がパッティに対する概念的理解との間には格段の相違があったのである。環は音楽学校時代、音楽史の中で「パッティ時代」を築いた大プリマドンナの存在は知っていた。
歴史上の人物としてのパッティについてはこの時既に七十二歳というからには高貴な方にありがちなツンとすましたおばあさんの姿を想像していた。
アデリーナ・パッティはシシリー島カタニア生まれのテノール歌手を父に、ローマ生まれのソプラノ歌手を母とし、一家がオペラ・カンパニーを作りヨーロッパ各地を巡業中の一八四三年にマドリッドで生まれた。
父がニューヨークのイタリアオペラの演出にたずさわるため、一家は渡米し、姉の夫でのちにパッティのマネージャーをつとめたモーリッツ・シュトラーコッシュに指導を受けたほか、兄カルロに声楽を、姉カルロッタにピアノを学んだ(27-1)(27-2)。
七歳の時《セヴィリアの理髪師》でロジーナのカヴァティナを立派にうたい、十六歳でニューヨークで上演した《ランメルモールのルチア》の主役でデビュー、一躍その名をたかめた。
十八歳でヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ミラノ、モンテカルロ、ブリュッセル、サンクト・ペテルブルグやモスクワ、ウィーン、ベルリン、リスボンと欧米各地の主要劇場に出演、熱狂的に迎えられた。彼女は正式に三度の結婚をしている。最初の夫はアンリ・ド・クロア侯爵であった(28-1)。
第二の夫はテノール歌手のエルネスト・ニッコッリーニであり、彼の没後スウェーデンの青年男爵セーデルストレムと結婚した時、パッティは六十歳に近かった(28-2)(28-3)。