別れとリハビリテーション
受傷から三年目の冬、衝撃的なニュースが連日テレビの画面に流れた。
六十年代安保の流れをくむ過激派が人質を盾に長野県の山荘に立てこもった事件で、警官隊との銃撃戦や鉄球が山荘を砕く生々しい画像がブラウン管を通して伝えられた。
左寄りの連合赤軍のメンバーは一流大学のエリートが多く、世の中を変えてやろうという意気込みは理解できるが、自分たちの主義主張を貫くために大切な人生を棒に振っていいのか、このような言動で示すことを本当に望んでいるのか、体育会系でもあり凡人でもある自分にはまるで理解できなかった。
彼らのような優秀な人物であれば別の方法で社会を変え、世界にも貢献できるのではないか。
小樽の病院から三年一カ月の入院期間を経て退院し、アパートを借りて研修生活が始まった。一人では生活できず、日常生活の面倒を見てくれるために青海の叔母さんが来てくれた。当初介護のおばさんにお願いするつもりであったが、費用がかかるため父や長兄が親戚に頼んでくれたらしい。
病院までの道のりを二十分ほどかけて車椅子で通った。
八時四十分から午後五時までを院内の図書室の一角で過ごし、一日中本を読む生活となった。言語障害に関する医学的な書籍は多く存在せず、解剖学や神経学、心理学などの他に統計学も読み漁ることとなった。
統計学は自力で学ぶことが難しく、通信教育で二年間続けることとした。津久田先生は一日の中で一回顔を出して、読み終わると別の本をすぐさま持ってきてくれた。ときには三冊、四冊同時に置いていったこともあった。
三カ月ほどすると、英文で書かれた専門書や、学術的な論文を訳すようにも言われた。初めの頃は覚えることがあまりにも多く、ただがむしゃらに目を通していたために、知識としてどの程度蓄えられたか、はなはだ疑問である。
一日中同じところで同じ動作をしているため、正直いい加減嫌になってしまい、こんなことをして将来なんとかなるのかと他にぶつけられない鬱憤を抑えるのに苦労した。それでも時々言語治療にあたっているスタッフが顔を見せてくれ、励ましの言葉をかけてもらったときなどは救われる思いであった。
対して津久田先生は入室しても言葉は一切かけてくれず、表情も崩さなかった。ただ室内をゆっくり回り、ときには自分のすぐ横に立ち一分から二分の時を過ごした。それが酷く長く感じられた。
したがって、アパートに帰ってからは叔母とよく話した。
本の好きな人でたくさん読書をしていたせいか、いろいろな話題で話すことができたし、冗談もよく口にした。お茶が飲みたい、テレビの野球をつけてほしい、耳が痒くて綿棒でとってほしいなどと次から次へあれこれ頼むことが多く、
「克っちゃん、私はタコじゃないんだからね。同時にいくつも言われてもできないよ」
そんな風に諭されることも多々あった。休みには写真を撮るため、三脚を立てたり上下に動かしたりレンズの絞りを合わせてもらうなどしていた。ときには車で買い物やドライブへ出かけることもあった。
「克彦の車によく乗れるね、怖くないの」
長兄が言うと、
「なんも怖くなんかないよ。安心して乗ってられるわね」
とても嬉しい言葉で返してくれた。
中央高速を通って都内まで行ったとき、途中で車が止まってしまった。
インターを入るとすぐさま時速百キロ前後で走り笹子トンネルを越えて大月あたりまで来ると、比較的長い下りが続いたため少しはアクセルを緩めたのだが三百六十㏄の軽自動車には荷が重かったのかもしれない。
八王子のインターチェンジで電話をかけ三男に助けに来てもらったが、エンジンを高速でふかしすぎピストンリングが壊れたのだと自動車の修理屋さんから聞かされた。
仕事のため石川県に住んでいた父からは、年に一回か二回の手紙が届いた。