内臓の神秘、その前に
次にする事は、その筋鞘を中央で切開して腹直筋を剖出してゆく事だ。
白線の下方に解剖刀の刃先を入れ、ゆっくりと切開を開始する。このとき、慣れたこともあってか、僕はこの間、中村さんから聞いた、タイルに人影が映ると言い張る患者さんのことを皆に話した。
すると、高久がさらに追加した。どこかの精神病院で、患者さんが廊下で洗面器に水を汲んで釣り糸を垂れていたので、先生が釣れますかと聞くと、釣れる訳ないだろう、と答えたらしいよ。
皆で大笑いして、あわてて周囲を見回したが、他班の者は知らんふりをしていた。白線そのものを切断しようとしても、下と癒着しているので、その脇を切る事になる。
下3分の1くらいまで切ったところで、高尾が小さくあっと叫んだ。担当していた僕は思わず鋏を止めた。間違っていたのだ。左右の腹直筋の中央、すなわち白線の部分ではなくて、各腹直筋の中央部分を切開するべきだったのだ。
四人とも、一度に脱力感に襲われた。僕は他の三人の放つ非難の気配を感じた。高久が、俺よその班で聞いてくる、と急にどこかへ駆け出した。良いじゃないか、正しく切りなおせば。
僕はいたたまれず、取り繕うようにそう言って、右の腹直筋鞘の中央、鼠径鎌の真ん中に鋏を入れて注意しながら、切開を上方へ延長した。
腹直筋の幅は大体5cm前後だったと思うが、その中央を真直ぐ切り開いて行く事はさほど難しくない。ただ、誤って切開したその一方の端が、身体から離れてひらひら動くのを意識しないではいられない。
この腱鞘を開くと腹直筋があらわれる。起始部は第5から7肋軟骨と胸骨の剣状突起に有り、恥骨上縁に停止している事を確かめる。
腹直筋は横に3、4本走る腱画という線によって分割されているが、実際黄色い線が滲むように走っていた。高久はまだ戻ってこない。
「それにしても、解剖学実習の試験てどんなものなんだろう?」
僕は高尾と田上に聞いてみた。
「筆記試験と口頭試問らしいよ」