しかし、潤子には温泉から出た後の楽しみがもう一つあった。
それは、グラスに入った生ビールを呑みながら、舞台で行われるショーを見ることだった。曜日によって出演者は替わるが、潤子のお気に入りは漫談でブレーク中のジャンクアップだった。
伊佐治とは真逆の人生を歩んで来たかのような人で、伊佐治の口からは絶対聞くことのないジョークや下ネタがかった話が潤子は特に好きだった。
一度、ツボにはまると抜け出せなくなり、しまいには周囲に気を遣うことなく大声をだして笑うことも度々だった。この日は、珍しく湯楽の里村温泉に伊佐治の姿があった。
定年祝いをしていなかったからと潤子に半ば強引に誘われ、しぶしぶやってきた。伊佐治はもともと人が大勢いる場所は好きではなく、むしろ、意識的に避けていた。
ましてや、何処の誰かも分からない人たちと一緒の湯船に浸かることなど不衛生に思え、耐えられなかった。洗い場ではシャワーの水を人に掛けても平気の平左だったり、満足に体を洗わないで湯船に飛び込む輩もいる。伊佐治にとっては想像するだけでも気分が悪くなることだった。
伊佐治はシャワーで簡単に汗を流すだけで済ませ、券売機に行き生ビールと枝豆を買おうとした時、将棋を指している二人の姿が目に入った。
伊佐治の唯一の趣味とも言える将棋は事件がない時、仲間と差すのがささやかな楽しみだった。ビールを買うのを後回しにして肩越しに覗いて見たが、余り上手な二人ではなさそうだった。
例えば、先手が「金銀取り」と言いながら「桂馬」を「歩」の頭に指した。初心者にはありがちで、相手の駒を取ることに夢中になり自分の駒が取られることは考えていないことが多い「桂馬のふんどし、歩の餌食」と、あっさり取られてしまった。
さらに数手が進み、後手が、「王手飛車取り」と指した場面では、
「そう来たか、チヨウさん待ってたホイ」
と、さっさと飛車が逃げていた。
「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」とはまさしくこのことだった。
見るまでの腕ではないと知り、伊佐治はビールと枝豆を買い潤子のいる席に戻って来た。
酒は決して強い方ではなかったが、仕事終わりや湯上りに飲むビールの美味しさは知っていた。