ユンケルから発声法を学ばなかったことは結果的に幸いであったとしているがこのことは天性の咽喉をもち得た環にしてはじめて出来る回想といえよう。
声楽の授業で受けたドイツ語の発音であるとか、楽曲の解釈であるとかの影響力は大きなものがあり、環をして「私が今日あるのはユンケル先生のお蔭が非常なものでした」と語らせている。
ユンケルは明治三十二年(一八九九)以来、お雇教師として契約を六回更新し、明治四十五年(一九一二)三月末には任期満了となったが、さらに十二月末まで嘱託講師として在任する。
その間、帝国劇場の開場に先立って明治四十三年(一九一○)の九月ウェルクマイスターと共にオーケストラの指導に当った。
大正二年(一九一三)一月十一日のプリンツ・ルードヰッヒ号で信子夫人(鎌田)と共に帰国、ケルンに住んだが昭和九年(一九三四)夫人と共に再来日し、指揮者、教師として活躍すること十年、「アウグスト・ユンケル先生顕彰祝賀会」を目前にして、昭和十九年(一九四四)一月五日、東京の自宅で七十四歳で永眠した。
わが楽界の恩師として敬愛された一生であった。