悦子は4年前に、鶴見駅西口に『焼鳥中ちゃん』という焼鳥屋を開業した。焼鳥屋なので夜の仕事である。深夜帰宅し、眠りについたかつかないうちに起床し、息子を野球部の朝練に間に合うように送る日々が続く。
その苦労も、交通事情の悪い地理的条件を自らの行動で克服し、息子に少しでも良い環境で野球をやらせてあげたいという親心。まさに母は強し。
母の思い岩をも砕くという信念ではねのけた。だから悦子はカラオケで ♬おっかさん♬ というセリフ入りの曲をよく歌っている。野球部員は総勢100人を超える。この中でレギュラーになるのは至難である。
そんな日々の中、夏の全国大会県予選、秋の県大会と過ぎて世代交代の時がきた。里志は無心で頑張った。甲子園も甲子園だがまずはレギュラーにならなければならない。
自分を信じて監督の眼鏡にかなうよう純粋な気持ちで練習に取り組んだ。そして3学期に入ったある日、この置手紙に繋がる事件が起こった。事件の発端は、いじめの発覚であった。
ある日、悦子は担任からの電話で学校に呼び出された。電話での端的な内容からある程度推測できた。どこの親でも思う「まさか我が子が?」という気持ちだったが、学校の裁定は一週間の自宅謹慎と決まった。
「私があまりにも息子に期待しすぎたからでは?」という気持ちからか、あまりひどくは叱らなかった。その謹慎処分中のある日の午後、息子は置手紙を残して消えた。
悦子は心配し、心当たりに電話をかけまくったが手がかりがつかめなかった。愛する我が子よ今どこに? しかし気丈な悦子は「何日かしたら帰って来るでしょう」との思いもあり、自らに気合を入れていつものように出勤した。
悦子は、仕事中も心配でたまらないので客の前で息子について語った。客とは意外とありがたいものである。当然他人事である。
しかし、この悦子の持つ人徳であろうか、他人事ながらある程度、親身なセリフが聞こえてくる。いくら根が明るく気丈な悦子とはいえ、もし他の仕事をしていたら、仕事が手につかなくなっていたかもしれない。
第三者に話す事である程度は気が紛れる。たまに毒舌めいたセリフもあったが、それはそれで一瞬でも深刻さを忘れさせてくれた。