はじめに

私は元々麻酔科医でした。麻酔科医の主な仕事は手術に際して患者さんの痛みを取り去り、手術の侵襲から患者さんを守ることです。

多くの場合患者さんは眠っており、他科の医師のように患者さんとコミュニケーションを取りながらの仕事はできません。しかし患者さんの重要な局面で、その存在をほとんど知られることなく、大切な役割を担うという立場を私は気に入っていました。

若い麻酔科医として過ごした日々は本当に充実していました。ところが年齢を重ねてくると、この科の苦悩も身にしみてくるようになりました。

麻酔は手術後に患者さんがちゃんと元どおり覚醒してはじめて仕事が完了します。どんな大きなリスクを抱えた患者さんであっても、麻酔を引き受けた以上は手術や麻酔を無事終わらせて、覚醒してもらわねばなりません。生、老、病、死の自然な流れに逆らって、自分のスキルの全てを使って、その流れをねじ曲げていく。

若いころにはこのストレスが充実感を裏打ちしてくれました。しかし、長らく麻酔科医を続けているうちに、自分の仕事の本質的な意味を考えるようになりました。

麻酔という科学の力を手に入れ、本来なら死に至るかもしれない人々の意識も呼吸も心臓の動きも血圧も痛みもコントロールし、そして手術後にはまた蘇らせる。これは神業以外の何物でもなく、人間である自分がこのような業を行っているという重圧感……。若いころにはできていたことなのですが、そう軽率に続けられるものではないと考えるようになりました。

そんな私の個人的な心の変遷の中で出会ったのが「たんぽぽクリニック」でした。病院の奥の院のような手術室での仕事に疲弊していた私には、患者さんの自宅で診療ができるというのは画期的なことでした。