だが、周りの風景は黒くかすんでいる。地味な紺のスーツを着てコツコツと黒いパンプスを鳴らしながら近づいてきた。
「いらっしゃいませ、私、こういうものでございます」
名刺を差し出した。その時にちゃっぷんと液体がはねたような音がしたが名刺を見ると
本田目多々亜子
と書いてあった。
「あの、中国の方ですか?」
自分は当然と思われる発言をしたつもりだが「ちがいます」と怒ったような声がした。
「私は日本人ですよ、あなたと同じ」
たぷんたぷんという水の動く音がした。
「これは何と読むんです?」
尋ねるとまた自分を見据えながら、
「本田メタタアコです」
「はい? だめタコ?」
「変なところで切らないでください、本田が苗字、名前がメタタアコです」
「メタタアコって」
「キラキラネームです」
「どこもきらめいていませんが」
「私のことは、いいんですよ」
メタタアコはコツコツとヒールを鳴らしてきびすを返して机まで行った。
「えーと、確認事項ですが、あなたは大森和也さん、性別男性、それから年齢五十歳、まちがいないですかぁ?」
「はい」
答えてから気づいた。確か旅行に行っていたはず。楽しい旅だったような気がするが、でもどこに、誰と、考えても思い出せない。不安になったが頭がぼんやりして働かない。