生命の崇高と人体構造の神秘を描き切る傑作。

ほぼ100日、約3カ月におよぶ正統解剖学実習。死者と向き合う日々のなかで、医学生たちの人生も揺れ動いていく。目の前に横たわる遺体(ライヘ)は何を語るのか。過去の、そして未来の死者たちへ捧ぐ、医療小説をお届けします。

第2章 乳房が簡単にずれて、はずれる。筋肉や骨を切断する

昨日やり残した頸部の皮剝ぎから再開した。この部位は皮膚が非常に薄かった。

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しかも、皮の下からすぐ暗赤色の筋肉が現れてきた。広頸筋、platismaだ。頸部の皮切りが十分に薄く、すなわち上手に行われた時は、白い筋膜をかぶってあらわれる、と実習書にある。少しでも深すぎると、筋膜ははがれ、このようにいきなり筋が線維束として現れるらしい。先に、もっと丁寧に手引書を読んでおくべきだった。早い話、この部位は失敗だった。致命的では無かったのが慰めだ。もう少し読み進めてみる。

広頸筋は薄い板のような形状をしている個体も有れば、簾すだれのように間隔を開けて走行している個体も有る、と書いている。自分の目の前の個体に関しては、後者だった。場所によっては筋肉にも個人差が有るらしい事を知った。

続いて乳房の解剖に移る。大きいとか形がいいとかで大の男たちが振り回される、あの乳房である。

ここだけは一通り実習書に目を通したのだが、まず、昨日乳輪の周りに円形の切開を入れただけで中断した乳房の皮膚に、その円周をほぼ等間隔に分ける点から放射状の切開を入れる。

左の乳房は僕の担当に当たった。平静を装い、テキストをのぞき込んだ。たぶん他の3人も平静を装っている。