このとても縁起の良い女性との結婚を、祖父は勧められ断る理由はなかったのですが、豊田家の長男でしたので、一度鳥取に戻り親族とも結婚について相談したいと話したそうです。
しかし、
「こういうものは縁だから、すぐに決めたほうがいい」
と、言葉巧みに周囲の人たちに勧められ、断りにくい状態をつくられ、この見合い話がかなり上の人から持ち掛けられたものだったこともあり、それではと、止むを得ず承諾したそうです。
すると、今度は結婚(婚姻届の日付け)は絶対に7月7日の「七夕の日」にしなければならない、万が一のことがあって手続きに不備があっては困るから、すべてこちらで手配すると満州鉄道側が仕切りだし、祖父母には一切関わらせなくなりました。
なぜ、そんなことにこだわるのかはわからなかったものの、慣れない満州のことでもあり言われるまま任せ、こうして戸籍にも正式に記載されているように、見合い話からわずかひと月あとの大正9年(1920年)7月7日に、満州において慌ただしく靖国と千代子は結婚したのでした。