こうしておけば、きわどい岩場で万が一足を滑らせても滑落することはない。川田も同じようにセルフビレイを取った。そしてロープを解いて一端を自らのハーネスに結び、もう一端を鬼島に渡した。鬼島も同じように自分が持っていたロープを解いて一端を自らのハーネスに結び、もう一端を川田に渡した。
どちらがトップで登攀するか事前に話し合われることもなかったが、鬼島がリードで行くことは暗黙の合意だった。
川田は自分のハーネスについた確保器に、鬼島のハーネスから伸びている二本のロープをセットし、鬼島を確保(ビレイ)した。これで万が一鬼島が落ちても川田がロープを張れば確保器で滑落を止めることができる。ビレイの準備が整うと、川田は「いいですよ」と鬼島に告げた。
「じゃあ行くぞ」と言って、鬼島がニードルの絶壁に入っていった。一応フィックスロープは張られているが相当に老朽化しており、体重をかけたら切れてしまいそうな代物であった。
しかし鬼島はそんなフィックスロープなどには見向きもせず、岩壁のわずかな突起にアイゼンの前爪を引っかけながら数歩クライムダウンし、そこから雪壁の中に足を蹴り込みながらゆっくりと、しかし確実にニードルの岩塔をトラバース(横方向に進む動き)していった。
十メートルほどトラバースしたところに壁がえぐれている箇所があった。足場がなく、見るからに悪そうであったが、鬼島はうろたえることもなくその上部にバイルを打ち込み、上体を安定させてから大きくスタンスを取り、えぐれた壁の向こう側の雪壁に足を蹴り込み悪場を越していった。
川田は鬼島の動きに合わせて確保器からロープを送り出していった。三十五メートルほどロープが出たところで鬼島の動きが止まり、それ以上ロープが伸びなくなった。鬼島はニードルの向こう側におり、もはや川田の側から鬼島の姿を確認することはできなかった。ロープの動きが止まってからしばらくして「ビレイ解除!」と言う鬼島の声がニードルの向こう側から響いた。
川田は、手元の確保器からロープを外し、「ビレイオフ! ロープアップ!」と大声で返した。すると鬼島はロープを引き始め、やがて川田の手元で余っていた分のロープすべてが手繰られ、川田のハーネスを引っ張りそうになったところで「ロープ一杯です!」と再び川田がコールした。
ロープは止まり、しばらくして「登っていいぞ」という鬼島からのコールが返ってきた。あとから登る川田を確保する準備が整った合図だった。
▶この話の続きを読む
「あんたら舐めすぎだぞ。ここは剱岳だ。八ヶ岳や南アルプスとは雪の量が違う。わかってんのか?」準備が悪すぎる若者に…
【イチオシ記事】彼女を抱くと、体中の縛りが解き放たれる。「急がないで、お願い、ゆっくりして」と喘ぐ声を聞きながら、俺は…
ゴールドライフオンライン(GLO)は、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン(GLO)編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp