第1章 静謀
壁の奥の小さな窓から、明け方の弱々しい陽光が差し込んでいる。
その光を浴びて、彼は、服を着たまま洋式便器に突っ伏していた。便器を抱えるように、両腕をだらりと垂らし、うなだれた背中は動かない。扉の外では、妻の恵子(けいこ)がパジャマ姿のまま床にへたり込み、声もなく、ただ呆然(ぼうぜん)とその姿を見つめていた。
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ゆらゆらと線香の煙がたなびく狭い斎場の入り口近くに、柊悠真(ひいらぎゆうま)は一人佇(たたず)んでいた。
細身の長身を黒のスーツに包み、警察官時代の癖で周囲に素早く目を走らせる。当たり前だが危険などありはしない。警察を辞めて12年、もう52歳になった柊だが、若い頃に身に染みついた癖はなかなか消えることはない。久しぶりに着た礼服は腹回りが少しきつかった。
僧侶の読経の声が流れるなか、喪主の恵子はいちばん奥の椅子に座り、お悔やみを述べる親族に頭を下げている。隣には会社員の息子と就活中の大学3年生の娘が、うつむいたまま座っている。
寂しい、いや寂しすぎる葬儀だ――柊は心の中でそう呟(つぶや)いた。
亡くなった加納尚人(かのうなおと)とは、エネルギー関連の総合商社 関東エナジー開発株式会社の副社長だった。しかし斎場には会社の役員はおろか、社員の姿も取引先も見当たらない。
祭壇には、社名の入った供花ひとつなかった。並べられているのは、親族から贈られた小ぶりな花だけ。それは祭場の広さに対して、あまりに質素で、ぽつんと取り残されたように見えた。
正面に飾られた遺影では、加納が微笑んでいる。だが、柊にはどうしても、その笑顔が無理に作られたもののように映った。あの人らしくない――そう思ってしまった自分を、柊は内心で叱咤(しった)する。
目をゆっくりと横に移すと、喪服姿の恵子がいた。椅子に座ったまま微動だにしない。
泣いているわけでも、顔を伏せているわけでもない。ただ、まっすぐ前を見つめていた。その無表情さが、かえって胸を刺す。
柊は、加納の死をまだ受け入れられずにいた。遺影の下に置かれた線香の煙が静かに揺れている。その揺らぎは、まるで「これは終わりではない」と告げているように感じられた。