雅彦が椅子から立ち上がった。机を回り込み、よし子の前に来た。大きな体が震えていた。

「ずるいな、あなたは」

かすれた声だった。目が赤くなっている。

「俺は――俺は、弱い人間なんだ。強そうに見せているだけで、中身はぼろぼろだ。旅館の経営はどん底で、銀行にも断られて、どうすればいいか分からない。それなのにあなたにまで心配をかけたくなくて――」

声が詰まった。雅彦の目から涙がこぼれた。この人が泣くのを見るのは初めてだった。

(雅彦さんが泣いている。こんな顔をするんだ、この人が)

「1人で抱え込むしかなかった。弱い所を見せたら、あんたが失望すると思った。こんな頼りない男で申し訳ないと――」

「馬鹿」

よし子が雅彦の胸に飛び込んだ。両腕で力いっぱい抱きしめた。

「弱くていいんです。頼りなくていいんです。私もそうですから。2人で弱くて、2人で頼りなくて、それでいいじゃないですか」

雅彦の腕がよし子の背中に回った。震える腕で、壊れものを抱くように。

「よし子――」

「はい」

「お前がいないと、俺は生きていけない」

その言葉を聞いた瞬間、体の奥から熱いものがせり上がってきた。

唇が重なった。泣きながらのキスは塩辛かった。でも、今まで交わしたどのキスより深かった。

雅彦がよし子を抱き上げた。帳場を出て、2人の寝室へ向かった。途中、廊下で節子とすれ違ったが、節子は一瞬目を丸くしただけで、何も言わずに通り過ぎていった。

(節子さん、何も言わないでいてくれた。ありがとうございます)

部屋に入ると、雅彦がよし子をそっと布団の上に下ろした。