三月八日
由起夫は病室で鏡を見ている。そこへマリが明るい声で入ってくる。
マリ 由起夫、おはよう。体調はどう? 事故から一週間。
由起夫 えっと、マリさん。
マリ マリさんって。そんな丁寧に呼ばれると嬉しい。ほら、由起夫が好きなロールケーキ。
由起夫 あっ、ボク、甘いものは……。
マリ ええ? 好みも変わったの?
由起夫 ウィスキー呑みたい……。
マリ 由起夫の唯一の救いはお酒を呑めないことだったのに。
由起夫 変わったのは、顔も、それにカラダも。
マリ 全然変わってないけど。
由起夫 ああ、そうなのですか? でも、若返ったみたいで。ボクの若いときの顔ってこんなんじゃなかったし。何が起こったのか、コトの顛末をもう一度説明してくれませんか。
マリ 「コトの顛末」って? 事故のことね。
バイクでパトカーに追われてぶつかって、この病院に運び込まれて、心肺停止だったから、AEDで。そのとき、病院の先生がその機械で感電して、由起夫と二人で昏睡状態。でも、その先生も意識が戻ったって。
由起夫 その先生、名前なんていうの?
マリ 山下先生。あの日は救急搬送がたくさんで、山下先生は応援に駆り出されて、慣れないAEDでやらかしたって。病院は慌てたらしいよ。由起夫も山下先生もどうなるか分からないって。
由起夫 山下先生。
照明が変わり、恵一のベッド。恵一は鏡を見ている。水沢が検温のためバインダーを持って病室に入ってくる。
恵一 やっぱり分かんねえ。
水沢 おはようございます、山下先生。三月八日です。検温の時間です。お加減いかがですか?
恵一 ああ、サチコさん。サッチャン。
水沢 はあい。嬉しい。
恵一 あのさ、みんなが、オレのこと「センセイ」って呼ぶけどさ。何のセンセイだったっけ?
水沢 まだ意識が混乱しているんですね。このお薬は、「リス●リ●ン」です。ご存じですよね?
恵一 いや。
水沢 副作用が少ない抗精神病薬でしたよね。
先生の記憶が戻るまで、何度でも説明しますよ。先生は、この病院のガン治療のエキスパート。先生のおかげでこの病院はいつも満員御礼。大勢の人の命を救ってこられたのですよ。だから、みんなから恵一先生って呼ばれているでしょ? それにしてもとんだ災難でしたね。私がお声をかけたばかりに。でも、あのときの青年も意識が戻ったらしいです。先生のおかげですよ。
恵一 えっと、その青年って、名前は?
水沢 清水……下の名前はなんだったっけ?
恵一 清水……由起夫。
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