部屋に入ると冷たい空気が肌を心地よく撫でていった。やっぱりこの柄にしてよかった。夏海はオーダーで作ったカーテンを見ながら少し心が躍った。

夏海たちが住むマンションは競売にかかっていた、言わば掘り出し物だった。細かく区切られた部屋の壁を取り除き広いリビングに改造した。夏海の生活は何の不自由もなく快適だ。

夏海は去年から、大手家電会社の派遣社員として働いている。早朝起きて夕方まで仕事をし、帰宅したら家事をする。こんな当たり前の生活ができるなんて一昨年の暮れまでは想像もできなかった。

こんな生活はもう嫌だ。こんなビルには入りたくない。だが、仕事をしなければ、稼がなければ何も変わらない……世の中は金が全てだ。

夏海の夫である隆司は、従業員が数名の小さな会社を経営していた。売上の代金をほとんど手形で得ていたため会社の経営は窮迫し、隆司はいつか訪れる破綻の影に怯えていた。

もうダメかもしれない。そう感じていた隆司の嫌な予感は思ったより早くその姿を鮮明にした。隆司が回収してきた手形は不渡りとなり、ただの紙切れに変わってしまった。会社は連鎖倒産の一路を辿った。

その時点で銀行からの借入額は数千万に及んでいたため、銀行は担保に入っている自宅を差し押さえる方向に動き出した。融資の話を持ちかけてきた時、銀行の担当者は雨上がりの日差しみたいな笑顔を見せていたのに、手形が不渡りになった途端、雷雨のように威圧的で激しい態度に急変した。

夏海はまだ幼い沙耶のことを案じ「返済は自分がなんとかするから自宅を差し押さえることは待って欲しい」と懇願した。この時、夏海は風俗で働くことを決意した。

しかし、隆司は煩わしさから逃れたい一心で夏海の気持ちを汲んではくれなかった。

妻の厄介になることを恥じたのか、隆司は破産宣告をして全てを手放した。だが、知人や友人からの借金や保証協会を通しての融資までもが消えたわけではない。

夏海はそれらの返済のため風俗業界に身を置いた。

夏海がこの風俗店で働き始めてから五年になる。

夫のために妻が身体を売る。そんなことは日本の歴史の中でめずらしいことではない。自分が我慢をすれば家族が助かる、そう思えばどんなことだってできると最初は思っていた。

しかし、現実は違った。見も知らぬ男性に身体を触られるのは不快だ。ましてや、性欲の処理までしなければいけない。

最初の頃は接客が嫌で泣いてばかりいた。だがある日夏海は「これではいけない」「私は負けられない」そんな強い感情を抱いた。

何に対して「負けられない」と思ったのか、自分自身か、それとも自分だけ破産宣告をしてのうのうと生きている夫になのか、または夏海の実家にまで顔を出し、遠回しな言い方で母を責めた銀行になのか、それは夏海自身にもわからなかった。

ただ「負けられない」と強い感情を抱いた日から夏海の接客態度は変わり、夏海を指名する客が増えたことは事実だった。

次回更新は1月12日(月)、21時の予定です。

 

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