人間は、小さな噓より大きな噓に騙される。

アドルフ・ヒトラー

〈二人の現在地――土橋直哉〉

「どんな小説を書いてるの?」

僕はそう言い、榎本君の横顔に視線を向ける。彼はそれに気付かず、机に向かい、ノートPCのキーを叩き続けている。一心不乱にキーを叩き続けるその姿は、まるで自身の欠落から目をそらすために、常に何かに没頭し続けないとならないかのような、彼の差し迫った心理を物語っていた。

施設を退所し、二人で同居して五年になるが、彼のその姿を見るのは珍しくなかった。人生における重要な何かが欠落した、その没入。彼は、その欠落を埋めるために小説を書くのではなく、その欠落の引力に強く惹き込まれるように小説を書く。彼の無意識がそう望み、その決定に意識が奴隷のように従っているかのように。

意識と無意識の関係。あるいは理性と本能。人間は常に、自分の中のその主従関係に翻弄され続ける。あずかり知らない無意識により、人生を規定され続ける。

キッチンでコーヒーを二つ淹れ、一つを榎本君の前の机にそっと置く。榎本君がハッとした表情で振り返り、僕に気付く。

「ありがとう。……全然気付かなかった」

榎本君はそう言い、椅子を回転させ、身体を僕の方に向けた。蛍光灯の光の当たり方が変化し、彼の目の下のクマの影を濃くする。影が、その光の粒子を含有していることを示すようにその濃淡を変化させていく。

「取り憑かれたように集中してたよ。……サバンナだったら、たぶん死んでるよ」

僕が冗談を言うと、「大都会で助かったよ」と彼は相好を崩し、張り詰めていた緊張か
ら解けた表情を見せた。

 

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