第一章 恭やん

負けずの始まり

銀座七丁目のライオンビヤホールの内装は、昭和九(一九三四)年の開業から変わっていない。深緑のタイルが貼り詰められた多角形の柱は天井に向かって太さを増し、見上げる者を圧倒する。抗火石(こうがせき)が張られた天井はあくまで高く、当初は白かった表面はすすけて焦茶色から黒へと変わりつつある。ビヤカウンターの上にはガラスモザイクの巨大な壁画があり、豊穣と収穫を祝う女神たちが描かれている。その下で男たちは忙しくビールを注ぎ、三百人近くが待つ客席に運んでいく。いつも満席なのである。

ビヤホールの天井は高いに限る。低いと隣席の声が聞こえることがある。天井が高ければ嬌声も激論も 哄笑も一様につき混ぜられて、わぁぁんという響きだけが堂内を満たす。満場の熱気が伝わって、客の心身に活力を湧き起こす。だから客はおしなべて笑顔である。前向きである。愚痴を言いながらも表情は明るい。言い換えれば、最も別れ話を切り出しにくい空間である。

このビヤホールの天井は十分に高い。しかも抗火石である。日本では伊豆諸島と天城山だけに産出する火山岩で、気泡を多く含む一種の軽石だ。軽量で丈夫で耐火性に優れる。吸音効果もある。満場の騒音をぼやかすのに、これほどの建材は無い。こんなところにまでビールに気を遣った建物は希有であろう。それゆえに八十年の永きに渡ってビール党に愛され、現存する最古のビヤホールとなったのである。

そして、このビヤホールの建設を命じた男こそ「東洋のビール王」と呼ばれた馬越恭平であった。

時は江戸後期にさかのぼる。足掛け三年にわたる天保の改革が挫折した翌年、弘化元(一八四四)年十一月二十二日に、馬越恭平は備中国後月(しつき)郡木之子村で生まれた。現在の岡山県井原市木之子である。広島との県境で、海を持たない穏やかな里をなだらかな山が囲んでいる。父の漢方医馬越元泉と母古尾子の次男で、幼名は伍蔵。兄元育、妹浅、弟大三郎、妹清、妹京、という六人兄弟である。ただし家系図には長男誕生前に幼くして没した姉伊志も記されている。

家を継ぐ長男に比べて次男は自由だと思われがちだが、恭平は生まれる前から人生を決められていた。その説明の前に、馬越家の来歴について紹介しておこう。

馬越家の祖先は、源平の頃から知られた四国伊予の豪族河野氏である。千年の長きにわたって同地の国主であったが、天下統一を目指す豊臣秀吉に帰順を迫られたときに、当主河野直が拒否したために、天正十三年に小早川隆景を差し向けられ、対岸の安芸国に落ち延びた。

一族であった河野彌兵衛尉通元も圧力を受け、慶長年間に至ってついに伊予国馬越荘の居城を捨て、木之子村に三輪崎城を築いて移り住んだ。このときに姓を変え、馬越家が始まった。

初代通元の孫にあたる又左衛門のときに武士を捨てて豪農となった。七代目の頃から家運が傾き、医業に転じた八代目のときには多くの田畑を手放した。八代元長以降、九代元貞、十代元壽、十一代元泉と四代にわたって、養子によって医業を継いでいる。

恭平の父元泉は、隣の成羽(なりわ)藩の漢学者窪連州の長男であった。素行不良で相続を許されず、浪人になっていたが、縁あって馬越元壽に認められ、娘古尾子を娶(めと)って養子になった。長男でありながら窪家を継がず、馬越家を継いだのである。

その代りに、息子一人を窪家に返さねばならない。従って次男である恭平は、生まれる前から窪家を継ぐことが決まっていた。長男元育が医者になり、次男恭平は漢学者になる。他に選択肢は無い。そういう時代だったのだ。

恭平は身体が小さくて病弱だったので、古尾子はしばしば地元の川で捕れる鰻を食卓に並べた。麦飯と漬物が普通なのだから鰻はご馳走のはずだが、脂が強過ぎて閉口したと、後に恭平は述懐している。