私が生きている限り、子どもたちにできることは、何もなかったことにはできなくても受容しないままでも、進む姿を見せること。恥じらいを捨て、私が元気でいる姿を見せて、子どもたちを学校に休むことなく行かせること。子どもたちが家族から学んだ小さくも大きな出来事を、家族から保育園、保育園から学校、学校から社会へどんどん交わりの輪が広がっていく中で経験を活かしながら歩めるようにすること。
声をあげて子どもたちと泣いたことや子どもたちに関わった日々がいつか彼らに、何かしら生かされることもあるだろう。
ちょっとした願い
今、家族に教わった場面場面での「許す心」について書いていこう。
真実を一つでも許していけばきっと人生をやり直したい否定、否認の気持ちより、今これからを大切にすることを少しずつでも、考えていけるだろう。「心に向き合う」ことは決してむやみに受け入れていく作業ではないこと。気持ちという見えないものには流れがあり、停滞もする。そして変化がある。
真実を受け入れない心をも受け入れることを私は拒まなかった結果をこの本に記した。今でもフィードバックを繰り返しながら時に気持ちの赴くままに決して否定はせずに、真実に感謝の心で明るい方向へ歩めるように慣らしている最中だ。
私の生い立ちもやり直すことはできないし、きっと何かしらご縁があって選んだ家で育った環境なのだ。決して裕福ではない。長女、次女、長男、次男の四人姉弟の次女として生まれ、姉とはひとつ違い。にぎやかな家庭だった。
父は亭主関白で職人気質で幼少期に遊んでもらった記憶はない。母は、専業主婦で仕事もして叱られたし、厳しかったし、姉のように従順ではなかった私はよく怒られていた記憶がある。あのときの私は、それを確執として捉え、いつだって褒めてはくれない両親だと感じていた。
いつも怪我が絶えず、川や池でひとりで遊んだり、習い事の時間までは野菜を取りにいったり、ひとりの時間のほうが気を張らなくて楽だった。逃げ場、話し相手は祖母だった。
幼少期、夜には仏壇でお経を読む習慣のある祖母の横で一緒に唱えることのほうが有意義だった。祖母の畑の手伝いもするし、実母の家事の手伝いもする。とにかく褒められたかったけど、マヌケさもあったから、きっと危なっかしくてたくさん叱ったんだなと母親になった今は解釈している。今だから母の大きな愛は痛いほど、言葉にしきれないほど理解できる。