私は戦争中の十八年春に生まれた。

両親、祖父母、おじたちと大人ばかりの家に初めての赤ちゃんだった。皆の喜びようは暗い世の中で明るいことだった。大切に可愛いがられ、よく肥り健康でニコニコの赤ちゃんだった。父はすぐにどこからかカメラを買ってきて、私の成長を撮りまくっていた。

そんな平凡な幸せも長く続かず、母が助膜炎(胸膜炎)にかかってしまう。私は六ヶ月だった。家の者は入院してすぐに良くなると信じていたが、当時、母の病は不治の病だった。母の病状は悪くなるばかりで、翌年の秋に二十五才で亡くなった。

私にいっぱいの愛情を残して……。

戦争はどんどん酷くなり、私たちも海辺の近い町へ全員で疎開した。それでも祖母は母代わりで、父も祖父も働き、戦争中でも楽しく暮らしていた。

私が六才の時、生活が一変した。

父が再婚することになり、母の実家を出ることになった。もちろん私を連れて行こうとしたが、祖母が必死にそれを拒んだ。私を連れて行くなら、「自分を殺してくれ!」とまで言われ、父は泣く泣く一人で家を出ることになった。その夜、蚊帳の中で父と二人で寝たが、ずっと五才の私を抱き、泣いていた。

私の生活は余り変わりなく、毎日、祖母と一緒に歩いて二十分程の幼稚園に通っていた。祖母と手を繋ぎ、童謡を口ずさみ、他愛のない話しをして毎日楽しく過ごしていた。

一年生を迎えた時に姓が変わった。父が再婚したので、祖父母の養女になったのだ。そんな大人の事情はわからず教室に入ったら幼稚園の時と姓が変わっていて、男の子から「おまえ、名前が違うやん」と言われながら席に着いた。先生は祖母から事情を説明されていたのか優しく笑っていた。

それから私は無口で消極的な子どもになったが、顔はいつもニコニコしていた。祖母は二年間毎日小学校についてきて、学校の庭掃除や草取りをして、用務員さんと話し、授業が終わるまで小学校にいた。考えられないことだが、私が心配で仕方がなかったようだった。

その頃、すぐ近くの四軒長屋に引っ越し、そこには祖父母と私、おじ夫婦と赤ちゃん。六人で住むことになり、なぜかおじ夫婦を「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶことになった。よくわからなかった。

その家では、下の奥の八帖が私たち三人の部屋になり、生活も一変した。祖父母は無口になり、いつも気を使っているおばは特に気性が激しく、何かにつけて私たち(祖父母と私)に辛く当たるようになった。

私は理由の見つからない叱責に家の外に出てみる。足は自然と海へ向かう。海は遠浅で砂浜は広く湾なので、いつも穏やかだった。一人で色んなことを考え、それでも十才の私には何の解決も見つからなかった。三十分も堤防で遠くの海の水平線を見て、家にトボトボ帰って行った。

それでも、私には祖父母がいるから幸せだった。その家には小さな縁側があり、裏庭もあった。祖父はキセルにたばこの葉を詰め、空を見上げ、プカープカーと煙をふかし、何かを考えているようだった。私は隣に座り、ポツポツと色んな話しを聞くのがとても好きで楽しかった。

本を読むこと、勉強をすること、人が読める文字を書くこと等、今の私の骨組みになっている。日常は厳しいけど、本を読んでいると現実から逃れ、本の主人公になれた。学校ではますます無口になり、消極的だったが、勉強は楽しくよくできた。良い点を取ると、祖母がとても喜び、日々の苦しい生活を忘れる笑顔だった。