学校は幼稚園から中学までの一貫校だったので、既に幼稚園から通っている子達はお友達がいる子もいたが、すぐにみんなと仲良くなれた。
私は運動神経ゼロで、体育の時間が一番嫌いだった。沢山の子が体育の時間になると喜んでいたが、私にはそれが全く理解できなかった。
学校に行くためのバス停が遠かったので、通学は毎朝お父さんが車で送ってくれていた。車でバス停に行き、始発なのでバスに乗り込み、しばらくすると発車する。すると、バスが出てくるあたりでお父さんが立っていて、私に手を振って見送りをしてくれるのが、毎朝の日課だった。
それが中学卒業まで毎日続いた。今思うと、毎日の送迎なんて大変だっただろうに、心が温かくなるお父さんとの思い出だ。
帰りは、終点のバス停に着くと公衆電話から家に電話して、お母さんがバス停に迎えに来てくれるのを待ってから一緒に帰っていた。小さいからひとりで帰せない、というのと、帰り道をきちんと覚えるまではお迎えに来てくれていた、という感じだった。
しばらくして「帰り道を覚えたから、もうひとりで帰れるよ」と言ってひとりで帰り始めたが、私は間違って家とは全然違う方向に歩いていったりしており、本当に覚えたかどうかを確かめるために陰からこっそり来て見ていたお母さんから「そっちじゃない!」と注意され、また一緒に帰ったりすることも何度もあった。
が、しばらくするとちゃんと帰り道も覚え、ちゃんとひとりで帰れるようになった。
バス停から私の家までの最短の道は飲み屋街があったので、おそらく教育上悪いと思っていたのであろうお父さんとお母さんは、相談して、学校に提出する通学ルートを、回り道する市場(お母さんが普段買い物するのとは違う市場)を通る道を教えられていた。
私はとても人懐こい子で、帰り道、買い物もしないその市場でよく油を売っていた。あちこちの店のおじさん、おばさんとおしゃべりし、たまに知らないお店のおばさんから家に招かれ、お菓子やジュースを呼ばれていた。
通っていた学校は進学校で、賢い子が沢山いた中、私の成績はそれほど良くなかった。だが教育熱心なお母さんは私に沢山の習い事をさせた。習字、スイミング、算数、絵画、エレクトーン、英語の教育団体。
その中でも続いたのは英語の教育団体だけだった。一緒に住んでいた典子姉ちゃんの同級生のお母さんが英語の先生をしていたから始めたものだった。
週に一度、英語の先生のところで同年代の子達と集まって英語の歌を歌ったり、役を決めて劇を練習し、数か月に一回は地域で発表会があって、そこでその劇を発表したり、他のラボの子達と友達になったりしていた。
そして3~4年生になると、夏休み、冬休み、春休みなどの長い休みには同じ英語の団体の子供達とのキャンプや合宿に参加して、色んな地域に沢山の友達ができてとっても楽しかった。
その団体で、私の世界はものすごく広がった、そしてそれは宝物だった。
そこは、家や学校とは全く違う世界で、それをやめる高校3年生まで、私が私らしくいられる、とても居心地の良い場所だった。