午前の配達を終え、店に戻ると、レジのところで母親の珠子(たまこ)がベエちゃんの相手をしていた。ベエちゃんは近所の農家のじいさんで、一仕事終えるとうちに来ては、缶詰をつまみに一杯やっていくのだ。そういう昔ながらの客が、うちには何人かいる。今ではかなり減ったが、酒屋というのは、かつてはちょっとした居酒屋みたいなものだったらしい。   

ベエちゃんは小柄で浅黒く、いつも農協の帽子を目深に被っていて、わざわざ飲みに来たにしてはそれほどしゃべるわけでもなく、狭い店内や時々来る客を眺めたり、口癖的に「近頃はアレだいの」としゃべり出してみたり、酔ってくると「ケヘヘッ」と一人笑ってみたりと、マイペースな酒飲みなので、こちらとしても気を使う必要はなく、勝手に飲ませておけばよい、という扱いである。

ベエちゃんが飲んでいても、ぼくは店番と称し平気でマンガを読んでいるし、母などはその時々の都合で、趣味のビーズアクセサリーを作ってみたり、話したい気分の時はベエちゃん相手に一方的にしゃべくってみたりと、好き勝手にやっていて、全然客扱いされないベエちゃんは考えてみれば不憫だ。

この時もぼくと母は、まるでベエちゃんがいないかのように会話した。

「お帰り。寒かったろう?」

「風けっこうあるかんな。ちょっと上で休んでくるよ」

「いいよ。午後さあ、ヨシカワスポーツさんとこの自販機、補充に行ってくれる?」

「分かった」

こんな二人の会話の中に、ベエちゃんの呟きが混じっている。「今日は早上がりでよう、まあ、そういうこった」

午前から飲んでいることの理由を言いたかったらしいが、ぼくは聞こえなかったことにして、奥に引っ込んでしまう。

個人経営の酒屋がよくそうであるように、我が家は店と家とがくっ付いている。店から家に上がると、ぼくは二階の自分の部屋に行き、ベッドに寝転んだ。横になりたいほど疲れてはいないが、さっきのことをゆっくりと振り返ってみたかったのだ。大地瞳子のことを。

目をつぶると、ふっと笑みがこぼれてくる。まさかあんなところで再び会うとは。こんなに近くに住んでいたなんて、知らなかった。これまであのメゾン灯というアパートには、何度か配達に訪れたことはあったが、二〇三号室のドアを開けたことはなかった。彼女はずっとあそこで暮らしていたのだろうか、それとも最近引っ越してきたのだろうか。

さっき会うまでは、あの女のことなどすっかり忘れていたというのに、彼女との思い出を振り返ってみれば、強烈でありながら、夢であるような、不思議な印象がぼくの記憶を揺さぶる。

短い間だったが、あんな風なひと時を過ごした女を、ぼくは他に知らない。付き合ってもいないし、携帯番号すら知らないのに、ぼくらはセックスをした。あとにも先にも、あんな行きずりのような行為をしたことはない……。

【前回の記事を読む】【小説】「記憶力ないなあ。声も覚えてないわけ?」自分をからかう配達先の女の正体は…