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2.名将「斎藤一之」の誕生と銚子商野球部
野球王国千葉県でも、最強のチームを作り上げた斎藤監督が、銚子商業高校野球部の監督に就任したのは、1962(昭和37)年の事だ。
斎藤一之は、昭和4年、千葉県山武郡横芝町生まれで、昭和17年旧制佐原中学に入学。昭和22年に中央大学に入学し、中央大学経済学部を卒業した後、銀行員を目指していたが、母親が持病である喘息を患っていたため、少しでも母親の近くにいられる教師の道を歩んだ。
斎藤監督の現役時代は、二塁手を務め、銚子第一中学の教師となり、同校の野球部の監督に就任後、同校野球部を三年連続で県大会優勝に導いた。その手腕が買われ、当時の銚子商業高校野球部OB会長であった人物に、銚子商野球部監督就任を要請される。しかし、当時の斎藤監督は、中学の教員免許しか持っていなかったため、再び母校中央大学に通い、高校で必要な教員免許を取得することとなる。
この時、斎藤監督の銚子商監督就任を後押し、支援したのは、OB会長の他、当時銚子市では、有力者とされた、主に漁業で使われる漁具を生産、販売していた業者「ツナキン」の社長であった「カマクラ氏」など、数名の有力者たちであった。取材の中で、この「カマクラ氏」については、詳しい資料が存在しなかったが、いくつか得られた資料と当時を知る人物の証言から、後の銚子商野球部後援会長を務めた人物で、本名は「鎌倉国松氏」と思われる。
昭和49年の銚子商初の全国優勝時に、恐らくOB会や、関係者向けに配られたと思われる、銚子商野球部後援会が主体となって制作された、『栄光への道』という、写真集に、この鎌倉氏の言葉がつづられている。また、この書物は、昭和49年の全国優勝までの銚子商野球部の軌跡がつづられた、大変貴重な資料となっており、今回のこの作品を制作するにあたり、非常に参考になった書物である。
また、奥方との結婚が、この教員免許取得の影響のため早くなり、斎藤監督夫婦は、銚子市内の黒生から、毎日鈍行電車に乗って、朝に家を出ては、帰ってくるのが夜遅く、という生活を1年半ほど送ったとされている。その斎藤監督は教育実習で、銚子市での有名な観光地である屏風ケ浦によく出向いていた。このように、学業でも優秀でありながら、斎藤監督という名将を迎え入れた銚子商は、野球という部活動でも全国区となる。
ちなみに、「教師・斎藤一之」は社会科、地理の担当である。教師としての斎藤一之は、様々なところで聞く話では、至って「普通」の教師だったという。ただ、銚子商野球部監督というイメージが強いため、教師としての側面が人々の印象から薄れているとも言えた。
ただその中で、最も印象的だったのは「しゃべり」の部分だったという。授業中に生徒を当てる時、滑舌が悪くて、なかなか何を言っているのかわからなかったことが多かったというエピソードがあり、にもかかわらず、甲子園の勝利インタビューでは、テレビの前だというのに、普通に話せるのが不思議だったと、当時を知る元銚子OBの市民が語った。
ただ、「高校野球監督」としてはある種「強烈」な一面を持ち、人一倍の闘争心と情熱を持った監督だった。のちに「情熱の指導者」と呼ばれるほどの野球への執着心と選手への愛情は「厳しい練習」という形で現れた。そして、その練習に現れた情熱と闘争心は、公式戦のみならず練習試合でも現れ、「練習試合だから試そう」という気は毛頭なく「勝ち」にこだわったという。