吉川とすれちがう社員は、全員、立ち止まって、深いお辞儀をしてくる。吉川が相当に偉い人間であることが分かる。吉川は総務部長であるが、同時に取締役でもある。社員二万人の頂点となる取締役会、その十二人の中のメンバーでもある吉川を会社で知らない者はいない。
三人が社内を移動していると、英介が丁度、社外に出かけるところが遠くに見えた。危うくニアミスとなるところであった。目のいい佑介は
「あ、今、パパがいたように見えたけど」
吉川は、慌てて、
「そ、そんなわけないでしょ」
「そうだね、服もいつもの作業着じゃなかったし、見間違いか」
吉川は、
(危ない、危ない。今日のことは社内でも内緒にしてるから、社長とニアミスしてしまった。もし、会ってたら、私はクビだった。今度は、秘書に社長のスケジュールをちゃんと確認しておこう)
と冷や汗が背筋を伝うのを感じながら反省した。ユニフォームを見ると、佑介は
「わあ、かっこいい。ずいぶんと大きいね。あ、これは外国人選手のだ」
などと大はしゃぎである。真理はあまり関心がない。見ても、ふうーん、という程度である。吉川は気を遣って、
「真理ちゃんはあんまり楽しそうじゃないね。じゃあ、この間優勝した時のトロフィーを見るかい」
と聞いてみると、二人そろって、
「見たい」
と言う。そこで、そういえば、トロフィーはどこにあったかな、秘書に聞いてみよう、と社内電話で聞くと、いつもはユニフォームと一緒に置いてあるのだが、たまたま今は、社長室に飾ってあるという。
「じゃあ、社長室にあるということだから、行ってみようか」
と言い、今度は、秘書に社長がいないことを慎重に確認して社長室に向かった。社長室の前に秘書のいる部屋があり、そこで吉川は、秘書に簡単に事情を説明した。
「うちの社員のお子さんなんだけど、ちょっと事情があってね。サッカーの優勝トロフィーを見せてあげたいんだ。もちろん、社長も了解してるから」
と言うと、秘書は、相手は子供なのに佑介と真理にも丁寧に挨拶をして、社長室のドアを開けてくれた。秘書は、
「かわいい子たちね」
と言いながら、
(どこか、社長に似てる気がするけど、ひょっとして、社長の隠し子かしら)
などと、勝手な想像を巡らせていた。社長室の中は広くて深い絨毯が敷かれており、その豪華な造りに二人は驚き、
「うわあー、広いし、素敵だね、うちの家じゅうの部屋が全部入るくらいだ」
と大はしゃぎである。