次の日の朝、一瞬「ここはどこだ?」と思ったが、昔使っていた机や本棚が目に入り、すぐに現状を理解した。二階の自室から下に降りる階段の途中で、よく響く高い声が聞こえた。
「あ、ごめんね。……そこにいたの気がつかなくて……」
妹が一人で玄関のドアを半開にしたまま喋っている。……大丈夫だろうか。天使のような姿で庭と一体化し絵にはなっているが、一見するとちょっと危ない人のようである。
「どうした? ツグミ」
俺は不安になりながらも朝の爽やかさを装う。
「おはよう。お兄ちゃん。……今ね、私が玄関を開けた瞬間に止まっていたガが驚いて飛んでいっちゃったのよ」
妹の指差す方向に、たしかにガはいた。外壁の高い部分に移ったようだ。
「おー……」
俺は戸惑いを覚えつつも、妹の言葉に首肯し共感したふりをする。ツグミはあまりにも自然に虫と会話していた。それはまあいいのだが、相手が極少サイズなので、もし他人に見られたら確実に誤解され、いらぬ心配をされるのではないだろうか。浮き世離れした妹に不安はあったが、とりあえず今まで通りツグミを両親に任せ、俺は地球での一人暮らしを始めることにした。
母親と妹は最後まで反対したが、父親が「たまに押し掛けりゃいいだろう……」と一言つぶやいた事で二人も納得したようだった。
仕事場の近くのアパートには職場の一日見学に行ったついでに寄り、空き部屋を見てその日のうちに申し込んでしまった。俺の勤め先から都会には三十分程で出られる。老舗の茶葉メーカーの小さな支店の店長は人好きのする顔をしたコーヒー通の初老の男性だ。コーヒー専門店のほうが居心地はいいのだろうが、自宅がすぐ近くで働くには便利らしい。店長はいつも自分の家から日替わりのコーヒーを持参するそうだ。
店から自転車で二分という従業員専用のアパートには数台のレンタル自転車が用意されていた。部屋はさほど広くはないが清潔で、周囲の環境も静かで上品な家々が並んでいる。募集が遅番のスタッフだったので、俺は週に五日、午後から働くことになった。