教育はYESマンの「子ども」を育てることではない
「子ども」の発達年齢に応じて、そのときどきの教育の方法に違いがあるのは当然だと思いますが、私はどの場合の教育にも共通して言えることの一つに「教育とはYESマンの『子ども』を育てることではない」と思っています。
「教育者の言うことを聞く子」「教育者の要求にいつも応える子」「外から見ていても明るく元気で素直な子」こうした「子ども」を絶対的に良しとする教育者は多いように思います。
確かに、発達年齢や理解力などによって「形から入る教育」が最も適している場合もあるかもしれません。ところが、そういう教育者は他の「子ども」に対しても同じ教育をしている場合が多いのです。
私は、まずは「YESマンを良し」とする考えを改めるべきだと考えています。ならば「NOマンが良いのか」というと、もちろんそういうことではありません。NOマンよりYESマンのほうが良いに決まっているのですが、そのYESマンの心のなかにどれだけその「子ども」自身の個性的な意思や考えが含まれているのかが重要なのです。
もしかすると、自分の意思や考えをはっきり持っている「子ども」は教育者に対する「YES」が少なくなるのかもしれません。しかし、それは教育者に対して、反抗するのではなく自分の主義主張をきちんと言える、時には教育者の考えに意見してでも自分をアピールするその「人」としての魅力ではないでしょうか。
今、振り返ってみてさまざまな分野で教育者の想像を超えてきた「子ども」というのは、はっきりとした自分の考えを持ち、それを他者に対してもしっかりとアピールできる「子ども」がほとんどだったように思います。「YESマン」はそれなりに手もかからず、話もしやすいかもしれません。また、見栄えもいいし、扱いもラクかもしれません。
しかし私の思う「人」としての魅力には欠けることが多かったように思います。現に、私がこれまで指導してきたなかでも、YESマンは安心して見ることはできましたが、そこにチャレンジする気持ちと何かを引き起こすパワーはあまり感じられなかったのです。
「子ども」の魅力は、決して教育者がきれいなマントで見せかけるものではない