このような気持ちになる人間は先天的にそのような素因を備えてしまっているのだろうか?
来栖の場合、三〇代前半までに両親以下、近しい係累の者が立て続けに死んでいったことからくる心理的影響もはたらいているのだろうと思い込んでいるところがあった。そうかと思えば自己の姿を突き放して見ている時もある。
結論など出てこない疑念にかまけ、無意味な煩悶を繰り返しているうちに、人生の前半はもうほとんど過ぎていったに等しいのではないのか。
社会に出てから四〇過ぎの現在の年齢に至るまで、来栖は少ないながら大小さまざまの葬祭に出席することを余儀なくされてきた。
壇上の故人の写真を眺め、死を慮る体験を積み重ねても、彼は自問の問いかけを止められなかった。
逆に近しい人の家庭に招かれ、本来楽しかるべき食後の団らんに同席してその家のアルバムなどを見せられる時には、同じ写真であっても救われる気がする。
写真には圧倒的に生者が多く映っているからで、彼らからはまだまだ『固定された死』のイメージなど伝わってこない。
それでも来栖にとっては写真上の人間が人好きのする表情で笑ったり、にこやかにこちらに話しかけてくるように見えても、固定され、確定された存在としか映らない。
そこからは生の躍動感など見出すことはできなかった。