こうして、未知の世界に恐るおそる飛び込んだ私にとって、それは意外なほど適応可能で興味をそそる職場なことを実感した4年間であった。

その上、この年末には妻との婚約式も「魔術を解く」に出演した大学教授のお宅で行われた。1994年9月3日放送の「台風の目をとらえる」が終わると休む間もなく東京オリンピックの語学要員の仕事に飛び込んだ。

この頃になると同期生の間からこんな噂が私の耳にも聞こえてきた。

「安間はICUだから英語ができるのが取り柄だけのPDさ……」

今度は学校教育に回される危険は少なくなったが報道局でなく、自分の周りに近いところでの噂なので私は目立たない行動を続けるに越したことはなかった。

特に隣室のテレビ教養部の先輩たちはNHK最初のドキュメンタリー「日本の素顔」で、このジャンルのパイオニアを自任しており後輩の「科学時代」をドキュメンタリーとは認めていなかった。

カメラ一つ使うにしても撮影部は隣の部屋のPDたちに貸し出す電池で動くドイツ製のアリフレックスではなく、われわれには手巻きで1分しか回らないアメリカ製のフィルモカメラをよこすことが多かった。

私の身になってみればオリンピックの翌年にも英語力が買われて、NHKが新設する教育番組の国際賞「日本賞」の実施要員に駆り出され、そのすき間に担当番組を作ることになるので英語力も撮影部の仕打ちも迷惑千万この上なかった。