【前回の記事を読む】子どもの「100」を知らずに、実はわずかな部分を見ている?
サボりにもサボりなりの理由がある?
「サボる」という言葉で「子ども」を捉えるときがよくあります。あの子がまた「サボっている」。「サボったから結果が出なかった」などなど。決して肯定的な意味では使われませんが、私はサボりにはサボりなりの理由があるのだと思っています。
これは、決して私が「サボる」ことを肯定しているわけでもないし、そういう「子ども」を甘やかそうという魂胆があるわけでもありません。ただ、「サボる人」=「悪人」というとらえ方はあまりにも短絡的なとらえ方のように感じます。
「子ども」には「『サボりたい』という意識が大なり小なり誰にでも存在する」ぐらいの度量が欲しいのです。ただ、当然のことながら、それをそのまま放っておいて良いわけではありません。
むしろ、「サボり」を認めた上で、そこをどう教育するのか考えなければいけません。まずは本人が「サボっている意識」があるのか、あるのであればそれが自分に対してどれだけマイナス的な働きを及ぼす可能性があるのか、を確認します。
そのなかで多少自分を振り返れるようになったら、そこからどうしていくのがいいのか、自分なりに対策がある程度考えられるのか、考えられるとしたならどうそれを実行に移すのか、そして実際に実行に移すことができたのか。
このあたりまでは教育者としては見届けられることが大切だと思います。当然、すんなりとここまで進むとは限りません。むしろ進まないことのほうが多いかもしれません。なんせ相手は「サボり」なのですから、そう簡単には前を向いて歩き出すとは思えません。
しかし、教育者である以上、いつまでも「子ども」がその場で立ちすくんだり、迷い続けたり、後ろばかり振り返らせているわけにはいかないのです。何とか教育者として、自分の力で、少しずつでも前を向いて進めるよう見届けていかなければいけません。
ただ、ここまでの過程を見ても、最初から「サボり」=「悪人」のレッテルを貼ってしまっていたら、その子どもの捉え方を大きく見誤ってしまっているかもしれません。
「サボりにもサボりなりの理由がある」いつもそんな目で「子ども」を見られるよう、心の準備はしておきたいものです。
「子ども」の負の心理は、より良い教育に活かせるチャンスと心得よ!