【前回の記事を読む】私の番組制作「成功の秘訣」の芽生えとなった出来事とは?
台風の目に空から突入するスクープ番組を企画
少し専門的な話になるが、成功の秘訣は番組の「でき、ふでき」や「演出」よりも「企画」にあったと思う。
「台風の目をとらえる」という番組の企画の発端は何か?
それは東京オリンピックを秋に控えた1964年の5月のことであった。富士山の頂上に設置された巨大な富士山レーダーの運用が開始になり「この秋からはこのレーダーがとらえる台風の動きが逐一分かる」というニュースを各メディアがいっせいに取り上げていた。
それを見聞しながら私の頭の中にひとつの疑問がわき起こった。
それは「今までも台風がいつ頃どの辺に来るかは、テレビでのニュースでよく見ていたのに……」「それはどうして分かったのだろうか?」という疑問であった。
気象庁に電話して聞くと、何となく曖昧な答えしか返ってこない。そこで以前、番組出演した鹿児島気象台の毛利台長さんに聞いて「実は米空軍の台風観測機からの情報をもらっていた」ことが判明した。
その瞬間「もし、その飛行機に同乗することができたら……」という想いが頭をよぎったのがこの企画の発端で、早速リサーチを始めた。とは言え、まずどこへ取材に行けばいいかが分からない。米空軍基地へ直接乗り込むなどできるわけがない。
そこで以前お世話になったアメリカ大使館の広報部に日系アメリカ人の藤巻氏を訪ねた。
「赤坂に米空軍の広報部があるから電話しておくよ」
と言われ、そこへ駆けつけ事情を話すと、すぐ米空軍の広報部長らしい大佐が出てきて言った。
「分かりました。私がサインした記者証を発行するから……」
と言い別室に連れて行かれ顔写真を撮り、身長と体重を測られた。出来上がったカードには
「NHK報道代表者身分証明書Sosuke Yasuma」(写真―7)とあり、裏面には「業務遂行のための便宜と特権を受けるものとする」と書かれ、私の目と髪の色、身長・体重がタイプされていた。大変なものを貰い
「Thank you, colonel」
と胸を張って挨拶した。
この時から「好奇心こそ発想の源」という格言めいた文句が私の「成功の秘訣」の片隅に入り込んだ。
東京の米空軍横田基地に乗り込むこれさえあれば番組はできたようなものだと思いつつ横田基地にあるアジアで唯一、台風の中に突入できる飛行機を持つ米空軍第56気象観測部隊の司令部を訪れた。1964年の初夏の頃であった。
「貴部隊の活躍を描いた番組のフィルムを寄贈するので、ぜひ台風観測機に乗せて欲しい」
というと、司令官は自分の部隊の映画には大いに興味を示して考えていたが、
「Mr.Yasuma, I am sorry...」
と切り出し、自分としてはOKだがワシントンの許可がないと無理だと言う。皮肉なことに司令官の名前はソーリー少佐であった。
もっとも名前は「sorryではなくSorey」と綴る。
ソーリー少佐はよほど部隊の活躍映画を提供するという私の提案が気に入ったのか
「今、あなたがアメリカ国防総省の広報部宛ての依頼状を書けば、部隊のテレックスで送信してあげよう」
とまで言ってくれた。
当時は、戦勝国の米軍の総本山である国防総省宛ての正式な手紙など、入局4年目の新米プロデューサーの肩書で出すなど想像を絶する越権行為であったろう(注:アメリカではテレビ・ディレクターのことをプロデューサーと言う)。
しかし、米軍基地という、入るだけでも大変で、特異な囲いの中での思いがけない親切な申し出に「えい! ダメもとだ」と数行の依頼文を書いて少佐に手渡し、興奮冷めやらぬ間に基地を後にした。