しかし、末吉には、無下に断れない理由もあった。安田は末吉のなじみの飲み屋によく飲みに行っていて、末吉とも時々一緒になった。また、息子の紘一も安田に誘われて、そこで飲んでいることがあった。
その飲み屋というのが、なんと峰子が勤めている店だった。末吉と峰子のうわさは、店の中ではよく囁かれていたので、二人の関係は安田も紘一も薄々知っていた。
ある日、安田と紘一は、消防団の集まりの後に二人で飲んだ帰り道に、末吉と峰子が連れ添って古びたアパートの二階の一番西側の部屋に入っていくのを目撃してしまった。二人はそっとアパートに近寄って、一階の階段下にある集合ポストを見ると、二〇一号室のポストに野口峰子の名前が書いてあった。
その日、末吉は午前一時過ぎに上機嫌で自宅に帰ってきた。息子たちに浮気の現場を目撃されているとも知らずに。
そのことがあってから、安田は紘一にも末吉にも少し謎かけをするような言い回しで、また、半ば脅迫するように店舗の購入を迫ってくるようになった。紘一に対しては、
「紘一、俺の店を買えば親父さんとおばさんは、幸せでいられると思うよ」
とか、末吉に対しては、
「俺の店を峰子さんに買ってあげたら、どんなに喜ぶか分かりませんね。おばさんだって知らない方が幸せなことだってあるんじゃないですか」
などと、言ってきた。
それでも親子二人が、なかなか返事をしないと、今度は峰子に対して、
「俺の店を『居抜き』っていう、凄くよい条件で親父さんに売ってあげるつもりなんだ。いくら親しい間でも、買いたいって言う人が出てきたら、俺も次の店のこともあるから、待っているわけにはいかなくなると思うんだ。だから峰子さんの方からも、もう一度店を持たせてもらいたいことを頼んでみたらどうかな。
初めから峰子さん名義で買ってもらうのは、ハードルが高いと思うから、取りあえず、親父さんの名義で買ってもらうんだよ。そして、親父さんが亡くなったら峰子さんに店の土地と建物を相続させる遺言書を書いてもらっておくのがいいよ。今、そういうの、流行ってるみたいだから」
と言いながら、居抜きで買えばどれだけ得か、初めから自分名義にするより親父さんの名義にしておけば、固定資産税を払わなくていいこととか、贈与税より相続税の方が断然安いこととか、良い面だけを強調した。
また、不動産屋にも頼んであるので、いつ売れてしまうか分からないことや、二階が住居なので、アパート代がかからなくなることなども付け加えて、とにかく急かしてでも早くした方がいいと、迫るように話した。
峰子は、自分の店を持つ夢が叶ううえに、住まいまで持てることを知って、末吉に今まで以上に必死になって頼んだ。そして、
「このままの関係だけが続くのなら、別れてください。私は、あなたとの関係を確認できる物が欲しいの」
と言って末吉にすがりついて泣いた。
末吉は、それを聞いて、峰子がいじらしく、よりいっそう愛らしくて仕方がなくなった。そして、
「分かった、分かった、そんなに泣くな。明日紘一にも話をして、俺の名義で買うことにしよう。そのくらいの金は、会社の余剰金を俺の退職金に充てれば、なんとかなるだろう」
と峰子をなだめるように言うと、その後、続けて、
「俺もキッチリと、会社は紘一に全部任せて、区切りを付けたいと思っていたんだ。この際、相談役にでもなって引退しよう。生活費やお前と付き合う金くらいは、役員手当と配当金でなんとかなるだろう。厚生年金も個人年金もあることだし」
と、やっと決意が固まったようにスッキリした顔になって言った。