はじめに
あなたは、どのあたりを歩いていますか。はるか遠くまで辿る人、同じところをぐるぐる回っている人、途中で足を止めてぼんやりたたずむ人。
ぼくはといえば、十年前以来ずっと時間が止まったままの次元の裂け目にタイムスリップ。ちょっとした縁で、目もあてられないくらいに散乱していた木工作業場の片づけをしているところです。
そこはかつて箪笥職人さんの仕事場でしたが、どんな事情があったか、恐らく手もつけぬまま他界、天井から伸びた草の蔓がぶらぶらしている有様でした。無数の釘や鋲の類、さびた金具、破断した帆布の平ベルトにからまれながら壁に寄りかかっている不気味に黒光りした木工機械。
今年の稲刈りが終わるや否や、休養もそこそこに、ぼくの小さな悪戦苦闘が始まりました。新しいひみつきちの建国という変な理想を胸に秘めつつ、正月返上で作業場に通い続けました。電気も暖房もない暗がりの中、ガスバーナーで沸かしたお湯で珈琲を淹れながら、ふと考えました。
その職人さんは、今はもういません。ばくは、いまというこの瞬間にいます。十年前の記憶から分裂した生命体が、何だか「いま」という柩に永遠に閉じこめられているようでもあります。
過去とは過ぎ去りしいまであり、記憶の増殖にすぎません。未来とはまだ見ぬいまであり、すぐそこのいまによって決定される無限のタイムラインといってよいかも知れません。
いま、一処。様々な思いを抱えて迷いながらさすらう心優しき旅人たちよ、どうかご無事で。あなたにはあなたの道があり、まちがいながらでもいい、いつかきっとあなたのふるさとに辿り着くのだと信じて。合掌。